見出し画像

江戸氏の菩提寺・喜多見藩陣屋・生類憐れみの令の犬小屋が置かれた「慶元寺」

江戸城の築城した太田道灌に江戸を明け渡すまで江戸を拠点とした江戸氏。
その2代目で、源頼朝に仕え、鎌倉幕府の重鎮であった江戸太郎重長の像が、喜多見の慶元寺にあります。

慶元寺は江戸氏の菩提寺で、江戸氏代々の当主の墓があります。

江戸氏は江戸時代に喜多見氏と改名し、喜多見藩を起こしますが、喜多見氏の陣屋が置かれたのも慶元寺の周辺のようです。
喜多見氏3代目の重政は綱吉の寵愛を受けて、生類憐れみの令の犬大支配役に任命され、喜多見に犬小屋があったそうです。

地名の喜多見、駅名の喜多見駅の語源である喜多見氏と、その関連施設(慶元寺、氷川神社、須賀神社、知行院)について、見ていきます。

江戸氏の菩提寺「慶元寺」

画像2

鎌倉幕府の開府時の重鎮で、江戸氏2代目当主の江戸太郎重長が、現在の皇居付近に創建した天台宗の寺院が元になっています。

室町時代、江戸氏は武蔵平一揆に敗北して弱体化します。
江戸を太田道灌に明け渡し、木田見(現在の喜多見)に移った際に、浄土宗(知恩院の末寺)として木田見にて再建します。

本堂は1716年(享保元年)に再建されたもので、現存する区内寺院の本堂では最古。

徳川家光から、寺禄十石の御朱印地を賜っています。

墓地には江戸氏喜多見氏の墓があり、境内には喜多見古墳群の4基があります。

平将門から秩父氏へ

画像3

江戸氏の祖は秩父氏で、秩父氏の初代は平将門の娘・春姫の次男・平将恒です。

なので、元を辿ると、平将門に行き着きます。

春姫の長男・忠常は下総千葉郡を拠点として千葉氏の祖となります。
春姫の次男・将恒は武蔵国秩父郡を拠点として秩父氏の祖となります。
春姫の三男・頼尊の孫は相模国余綾郡中村荘(現・小田原市中村原、中井町中村付近)を拠点として、中村氏の祖となります。

江戸郷を拠点とした江戸氏

画像4

平将門の5代下った秩父重綱の四男・重継は武蔵国江戸郷を拠点として江戸氏の祖となります。

重綱の長男・重継の長男・重能は武蔵国男衾郡畠山郷(現・埼玉県深谷市畠山)にて平姓畠山氏の祖となり、次男の有重は小山田保(現・町田市下小山田町)を拠点に小山田氏の祖となり、長女は千葉常胤に嫁いでいます。

重綱の次男・重隆は河越館(現・埼玉県川越市上戸)を拠点とし、河越氏の祖となります。

重綱の三男・重遠は武蔵国高麗郡高山邑(現・埼玉県飯能市の高山不動あたり)で高山三郎を名乗り、高山氏の祖となります。

鎌倉幕府の重鎮「江戸重長」

画像1

江戸氏二代目の江戸重長は源頼朝が挙兵した際、最初は頼朝と戦うも、後に頼朝に仕え、鎌倉幕府の重鎮となります。

戦国時代に木田見(喜多見)へ

画像5

戦国時代になると、江戸氏は太田道灌に江戸を明け渡し、武蔵国木田見(現・喜多見)に拠点を移し、古河公方の配下の世田谷城主の吉良氏の家臣となります。
後に、吉良氏が後北条氏に仕えるようになり、後北条氏に属します。

木田見は世田谷宿から登戸に向かう登戸道が村を通り、交通の要衝でした。
特に、多摩川を筏を組んで江戸まで行った筏師たちが青梅・西多摩地方に歩いて帰るのに通ったという「いかだ道」との交差点付近は特に賑わったという。写真Gがその現況であり、この交差点にかつてあった酒屋は、現在次太夫堀民家園に移築保存されている

吉良氏、世田谷宿については、以下の記事を参照ください。

家康から喜多見の地を安堵(喜多見氏初代)

画像6

武蔵江戸氏の23代目の江戸勝忠は、豊臣秀吉の小田原征伐の際、後北条氏と共に小田原城に籠城しています。

徳川家康が江戸に入った際に、勝忠は家康の家臣となり、武蔵国北見村500石を安堵されます。
それを受けて、江戸氏を改めて北見氏と称し、後に喜多見氏と改め、喜多見氏初代「喜多見勝忠」となります。

勝忠は、関ヶ原の戦い、大阪の陣で功績を上げ、近江国郡代、摂津郡代、河内・和泉の奉行などを歴任し、2,000石となります。
勝忠は徳川秀忠に茶を献じて、小袖及び黄金を下賜されたとされています。

喜多見流茶道を創設した2代目重勝

画像7

喜多見氏2代目の重勝は、歩行頭、目付、大坂目代等の江戸幕府の要職を歴任し、旗本になります。

古田織部に師事し、豊臣秀吉、徳川家康、秀忠、家光に仕えた宗可流の祖「佐久間将監」は義兄にあたります。
佐久間将監に茶の湯を学び、皆伝を受けます。
その後、喜多見氏1代目の勝忠と親しかった小堀遠州にも師事し、両流派の茶の湯を学んだ重勝は、喜多見流を創設します。

世田谷区成城3丁目のお茶屋坂は、重勝の茶室があったことに由来し名づけられています。

画像8

ちなみに、お茶屋坂に隣接した成城三丁目緑地は喜多見御料林と言われ、戦前は皇室のものだったそうです。その後、国有地となり、林野庁が管理。現在は世田谷区が管理しています。

3代目は綱吉の寵愛を受けて譜代大名に

徳川綱吉から寵愛を受けた喜多見氏3代目の重政は、綱吉の側用人を務め、譜代大名「武蔵国喜多見藩」2万石となります。

また、生類憐れみの令を施行する犬大支配役に任命され、喜多見に犬小屋を建設したとされています。

重政は突然に改易されて、伊勢国桑名藩主松平定重に預けられ、桑名で死去。
重政の嫡男・北見忠政は後に松前藩に仕えています。

この突然の改易は、芥川賞を受賞し、社会派推理小説ブーム(松本清張ブームとも)を起こした松本清張が「栄落不測」の題材にしています。

喜多見 氷川神社

画像10

740年に創建と伝えられています。
1570年、喜多見初代の勝忠の父「江戸刑部頼忠」が修復。
1649年、徳川家光より社領十石二斗余りを賜わっています。

画像9


1654年、初代・勝忠の長男・重恒、次男で2代目の重勝が現存する石の鳥居を寄進。
1682年、初代・勝忠が、神領五石が寄進するれたなど現在の神社の礎が完成させます。

画像11

須賀神社

画像12

2代目重勝が、喜多見館内の庭園に勧請したのが始まりとされています。
湯がかかると一年間病気をしないと云う神事「湯花神事」は、世田谷区の無形文化財の指定を受けているそうです。

知行院

画像13

1469〜1486年頃の創建、延暦寺の末寺で天台宗。
初代・勝忠が館の鬼門除けの祈願所とし、不動明王、閻魔大王を祀り、除地若干を寄進。
1649年に徳川家光より朱印状を受けています。
1873年(明治6年)、本堂を喜多見小学校(現在の砧小学校)の仮校舎として使用しています。

光伝院

光伝院-min

京都・知恩院直末の浄土宗鎮西派の寺院。
1649年、徳川家光より七石二斗余の御朱印を受け、御朱印状9通が寺宝として保存されています。

本尊は阿弥陀如来坐像で、源信(浄土真宗で七高僧の第六祖)という言い伝えがあります。

1868年(明治9年)から1870年まで喜多見学校の校舎として使われています。

喜多見不動堂

喜多見の住人浦野半次郎ほか6名が発起人となり明治9年に創建、昭和16年慶元寺の境外仏堂となったといいます。

■参照
ウィキペディア「秩父氏」
ウィキペディア「春姫 (如春尼)」
ウィキペディア「江戸氏」
ウィキペディア「江戸重長」
ウィキペディア「喜多見氏」
ウィキペディア「喜多見勝忠」
ウィキペディア「喜多見重勝」
ウィキペディア「喜多見重政」
喜多見 氷川神社
ウィキペディア「氷川神社」
須賀神社
猫の足あと「喜多見須賀神社」
龍寳山常楽寺 知行院
ウィキペディア「成城三丁目緑地」
猫の足あと「喜多見不動堂」
成城コルティ「お茶屋坂」
ウィキペディア「光伝寺(世田谷区)」
「世田谷の歴史地理:その7-旧喜多見村の景観-」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?