『聖なるズー』と動物の倫理
「聖なるズー」(濱野ちひろ)を読了した。ズー(動物性愛者)は単に動物とセックスしたい人では全くなく、動物にパーソナリティとセクシュアリティを見出し、動物の視点に歩み寄ることによって完全に対等に生きることを求めた結果、セックスをコミュニケーションとして行う人たちであった。
筆者も書いていたが、一度動物の性欲の発露を認識してしまうと、それを知らなかった頃には戻れないというのが本書で最もわたしが実感したことであった。もしかすると、動物を飼ったことのある人にはよりわかるのかもしれない。
本書には筆者の濱野氏自身の性暴力経験が深く関わっている。それもあって彼女の語り口がズーの存在に肯定的でありながらも終始ニュートラルであり、馴染みのないセックスをする彼らに読者が抱くであろう疑問をときには読者より強く抱いているであろうことが窺える。
それもあってテーマの割にはこの本は読みやすいと思われる。ズーという生き方をする人々を通して、関係性の構築の手段でもあり加害性の発露ともなりうる性欲、セックスについて、曖昧さを避けて考えるきっかけにもなると思う。
わたしは被害者のいる性行為はもちろん好ましいものであるはずがないと思う一方で、そのようなフェティシズムをもち、実在する人間が加害を受けない範囲で楽しむ事自体にはかなり好意的である。おそらくこれは少女期を男性向けコンテンツに囲まれて過ごした影響がかなり大きい。
そもそも動物姦自体が、動物型をした想像上のキャラクターを含めれば、二次元のマイナーの中では相当メジャージャンルである。触手並みに見るのではないだろうか。
その前提もあって、わたしはズーというフェティシズム自体への嫌悪感は特に無かった。とは言え、彼らが相対するのは生身の動物である。この場合動物という被害者が発生する可能性が出てくる。その意味で、動物飼育の経験もなければ、彼らの関係を直接見た訳でもないわたしは、動物との真の対等性と、動物と人間でやはりセックスという行為の意味付けは異なるのではという思いは最後まで拭うことはできなかった。
わたしは基本全てのフェティシズムを理解はしようと思うが、未だに乳児に対する小児性愛だけはどうしても分かることができないし、実在の小児を対象にすることに対しては偏見と言えるくらい嫌悪感が拭えない。その理由も上記と同じで、明らかに対等性がなく、セックスという行為の意味付けを共有することが不可能と思えるからである。なぜ小児性愛がいつまでもわたしのなかでの偏見として残り続けるのかをこの本を通して少しでも理解できればとは思っていたが、ズーは彼らは動物とその問題を超越しているからこそパートナーとして成り立つと解釈しており、彼ら自身は同じ理論により小児性愛者を嫌悪していると分かったため、結局そこまで助けにはならなかった。筆者も特に結論付けたりしてはいない。
ズーは明らかにそうでない人たちと比べて動物と距離の近い生き方を送っていると思われるが、彼らがベジタリアンであるかどうかの言及は特になかった。おそらくそれは彼らが特定の動物とパートナーシップを結ぶ生き方をしているというだけであって、それと全ての動物を摂食対象としないことは全く結びつかないからだろう。そもそもパートナーとして選ばれることの最も多い犬は雑食である。しかし馬をパートナーにしているズーが馬肉を食べるのかは少し気になるところではあった。
そういったことも含めて、彼らはピーターシンガーのような今世間に広まる動物の倫理とは異なる形で、日々倫理を実践していると見ることはできると思う。動物の倫理は功利主義からの説明をされることも多く、それは動物全体の快楽を考慮に入れた場合、動物の一種でしかない人間が今まで行ってきた行動を考え直す必要があるということで、具体的にはシステム化された肉食や動物実験などが当てはまる。対してズーは、目の前の動物を自分たちと同じようなパーソナリティもセクシュアリティもある個と捉え、人生の中で個人として付き合っていく。それを当たり前とすることは、一つの動物の権利の形であるといえないだろうか。医療倫理に対する鷲田の臨床哲学のような。
繰り返しになるが、本書はズーを通して様々な倫理的な問題を私たちに問いかけてくる。曖昧な問題に触れ、考えることができるよう、ひとつの問いの形を作ってくれるように思う。動物性愛そのものに興味がある人だけでなく、動物の権利や人間の性を別の視点から見てみたい人にはお勧めしたい本だと思う。
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