虚実皮膜の隙間で

近松門左衛門が言ったとされる芸術論に「虚実皮膜(きょじつひにく)」という言葉がある。皮膜(ひにく)とは皮(皮膚)と肉のことで、「虚にして虚にあらず、実にして実にあらず」皮と肉の薄い隙間のような虚構と真実の間に芸の高まりがある、という芸術論。先日のリアリティショーを舞台にした悲しい結末は、制作者の恣意的な演出で虚と実の隙間が大きく開き、虚が実を食ってしまった悲劇だろうか。

最初の会社で、重度の自律神経失調症になり円形脱毛症や様々な症状で仕事を続けることが出来なくなった時、私はその状態になるまで仕事の顔(虚)ばかり見ていて、本来の自分の体力や能力(実)との乖離(皮膜の隙間の大きさ)に気づかなかった。だから再就職した時、仕事と家庭の両立のためにも虚実皮膜の隙間のバランスを考えようと思った。虚実皮膜のバランスは自分を俯瞰で見ること、そして独立を決意するまでには、大事な2つの気づきが必要だった。

人は本能的に欠けているモノを求める。寝不足なら睡眠を、空腹なら食事を、経験が無ければ経験を求め、能力が低ければ向上を求める。学生や社会人が勉学やスキルの「欠けているモノを求める」ことを、美しい言葉で言えば「理想に近づく行動」と言えるかも知れない。

私の「欠けているモノを求める行動」は猪突猛進型だった。

10歳の時の「行動しないで得られた結果を選んだ」という母の言葉が刷り込まれ、百聞は一見にしかず、ではなく、百見は一体験にしかず、をモットーにしてきたからだ。10歳の頭で理解したまま行動していたから、時には行動せずに状況に任せた方が良いことや、行動するタイミングを見極めた方が物事が円滑に回って行く、ことに気づくのに時間が掛かった。力任せではストレスや衝突を生むことがあることを、失敗を繰り返してやっと気づいた。

そして、もう一つの気づき。成長する過程(時間)の中で、周囲の様々な価値観が自分を無意識に縛っていたことだ。時間は偉大だ、当時は受止められなかった母の死を朧月を見るような切なさに変えてくれた。その一方で、「お姉ちゃんだから家を守って行かなきゃ」とか「女だから就職は公務員や教師がいい」とか「普通は・・・」という周囲の価値観が、自分の皮膚の上に透明な薄い膜になって何層にも積み重なっていた。その周囲の価値観がありたい自分との間に葛藤を生んでいることに気づいた。

私の場合、十姉妹の籠を縁側に出していると裏山から降りてきたイタチに襲われたり、戦闘力の高い野良猫に食卓のマヨネーズをかっさらわれたりするような九州の田舎で、長閑だけど思考の多様性が低いドメスティックな環境の中、余計に周囲の価値観が薄い膜となって層を作ったのかも知れない。

人が社会に適応して行くために必要な意識を身につけて行くことを社会化という。

エミール・デュルケームは100年以上前に社会的拘束理論の中で、社会化とは価値の習得だと定義した。価値とは、個人の外に有って個人の価値や行動を拘束する集団や社会の行動や思考の様式であり、そういう社会の集合意識が個人の価値観をつくり動かしていると。言葉を変えると、個人の価値観は育成環境の文化・習慣によって作られる、ということだろう。

一般に、個人の社会化には2つの段階があり、別に、学校や企業などの組織に属した際には組織社会化のプロセスを踏むことになる。

第1次社会化:幼児期から児童期に言語や基本的な社会性を身につける、この時、社会化を導くのは主に家族。

第2次社会化:児童期後期から成熟期に社会的役割を身につける。この時の導き手は、学校・同世代・メディア・職場。

組織社会化:新しく組織に加わったメンバーが、組織の目標を達成するために求められる、役割や知識、規範、価値観などを獲得して組織に適応して行く、プロセス。例えば、職場で必要な略語を覚える、や、根回しを誰にしておくと話がスムーズに通るか理解する、なども組織社会化に含まれる。

社会化視点で私の独立までの心理的変化を言い換えるとこんな感じかな。

九州の長閑な自然の中で育ち「女の子は」とか「普通は」という同一的価値観が多数を占める中で「なぜ、女の子は就職先が限定的なのか?」「なぜ、普通じゃなきゃいけないのか?」「そもそも、普通とは?」などの理由を深堀りすることなく育った。文化背景の違う人が集まる企業組織の中で、組織の目標を達成するために働いたが、自分を見失い体調不良で退職。再就職したが、組織目標遂行のために働く自分の不適応を感じ「自分は何者だろう?」と自問し続けた結果、育った環境の価値観が自分を縛っていたことに気づいた。皮膚に貼りつた薄い膜のような不要な価値観を引きはがした時、やっと独立に踏み切れた。

虚実皮膜の(実)に、長い時間を掛けてやっと辿り着いた。本当の(実)を知らずにどう(虚)との隙間のバランスを取れるだろう。

あるかがまに生きるのは案外難しい。

独立という選択は私の個性に適していた選択であって、万人に適するものでは無いけど、ジェンダーギャップ指数121位/153国の日本では、女性が働く上でモヤモヤや葛藤を抱える機会が多いように思う。

私はフェミニズム論者ではないけど、日本では、1次社会化期の自分で判断できない頃から、有徴化された言葉(女流作家は有るが男流作家は無い/女房役が有るが夫役は無い)の中で育つ。そのため、気づかないうちにジェンダーの違いや周囲の価値観を刷り込まれ、葛藤が生まれることがある。

もし、このnoteを読んでいる女性がいて何らかの葛藤を抱え、葛藤の原因がAとBの相反する2つの価値観のぶつかり合いなら、2つの価値観が本当に自分が必要としている価値観なのか、どこかで、誰かに刷り込まれた価値観じゃないか、振り返って貰えたらと思う。そして、その価値観が本来の自分が必要としないモノなら勇気を持って引き剥がそう!。

道を切り開こうとするものに未来は明るいぞ!!











この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?