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惜しみなく自分からの視点を投影しつづけた浮世絵師・葛飾北斎

江戸時代から幕末にかけて活躍した浮世絵師として知られる葛飾北斎。彼の凄みを言葉で表現するなら「行動力と視点」だ。交通手段や画材道具、さらには政治的な圧力など、いまとは比べ物にならない制約の中で、目に見えたものを描き続けたからだ。

北斎が生きた90年間〈1760〜1869年〉は、徳川幕府による武家政治が行われていた時代だ。徳川幕府が天下人になる以前ほどではないが、まだまだ武士による権力が世間を整えるアルゴリズムなのであった。「芸術なんて俗物志向だ。色欲を煽り人を堕落させる。」という具合だ。

イラストレーターとしてはかなりやりづらい風潮であった。色物アーティストである歌麿の存在や、年下の新人アーティストである東洲斎写楽の登場もあり、北斎は自分の在り方に迷っていた。これを機に、旅に出て、葛飾北斎として一皮むけるきっかけになるのが富士山だ。

観たことない美しい富士山に出会ってしまった。そして、描きたくなったのだ。北斎は自分の足で歩いて日本各地をたゆたい、描きたいものにとことん向きあった。北斎の転換点ともとれる大事な迷走だ。北斎の絵には人だけでなく風景が織り込まれるようになる。

旅に出て見聞を広げ、感じたままの風景を写しとる。とりわけ富士山の美しさに心を打たれ、アクセントや主要被写体に富士を取り入れるようになった。当時、富士は「不二」と呼ばれ、二つとないという意味の唯一無二の象徴とされていた部分がある。北斎にふさわしい言葉だ。

人物を美しく描くことが一般的だった当時の常識に反し、北斎は大胆にも風景を前面に押し出した。見たままを描くだけでなく、その場所で感じた要素をレイヤーのように落としこみ一枚に情報を圧縮。制約の多い環境下で、惜しみなく自身の視点を投影したのだ。

北斎の作品は、世界中の印象派にも影響をあたえた。モネ・ゴーギャン・ドガ・ゴッホたちがそうだ。北斎の作品を追いかけると、描きたくなった理由が見えてくる。レオナルドダヴィンチやチームラボの猪子寿之も、「視点」が世界観を変えるといっている。カメラはいいぞ。


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