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『アリスとテレスのまぼろし工場』は、渋る気持ちを未来に押してくれる物語だ

アニメ制作会社MAPPAによる『アリスとテレスのまぼろし工場』が秀逸である。『あの花』や『さよ朝』でおなじみの岡田麿里が脚本と監督を務めたのだが、『鏡の国のアリス』という物語と『アリストテレス』の哲学を交ぜた、若者への深遠なメッセージとなっている。

作品の舞台は1991年の見伏市となっているが、実際に見伏市があるわけではなく、まぼろしの田舎町ということだろう。住人のほとんどは製鉄工場で働くことが普通で、田舎特有の働き方と閉塞感が生々しい。

作品のタイトルにもなっている「アリス」と「アリストテレス」は、ルイス・キャロル『鏡の国のアリス』という物語の主人公である「アリス」と、ギリシャ人哲学者である「アリストテレス」のことだが、物語の心臓となるキーワードだ。

ルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』では「逆さ」の世界が描かれている。主人公のアリスは法則が「逆さ」の世界で立ち振る舞うのだが、自分が従ってきた法則がそもそも自然の働きで、鏡の中の法則が異質であることは、鏡の外で育ったことがそもそもの前提なのだ。

アリストテレスは、「物事は4つの原因で変化する」ことを説明した哲学者だ。①何を使い、②どう造られるか。③何が始まり、④どこへ向かうか。4つの原因を石堀の彫刻で例える。①大理石を使い、②人のかたちを造る。③彫刻家が制作し、④鑑賞者へ造られる、ということだ。

『鏡の国のアリス』という物語と『アリストテレス』の哲学を交ぜてみる。①自分たちの未来の子供で、②自分たちの今を変える物語であると同時に、③未来の自分たちがおこした問題を、④今の自分たちが解決する物語でもあるのだ。

沙希が迷い込んでしまった異世界では、大空にほとばしる亀裂の先で輝かしい夏が視える。鏡のようにありのままが映ってるのか、それとも理想が写っているのかは、亀裂の先こそが自分が歩むべき未来だと信じた者だけが、「今」を変えることができる。

少し先の未来が視える人と、未来を見据えていない人では、伴う行動が変わってくる。それは、人間がかかえるそれぞれの目的が違うからだ。始まりは同じでも環境次第で目的が変わり、やがてはそれぞれの方角に反れていき、すれ違いすらなくなる。

世の中には現実的な人もいれば夢に向かう人もいる。どちらが優秀か凡人かを決めるようなデッドラインを主張し、自分と他人を比較するような社会になりつつあるが、現実派も夢追い人も「悪」ではない。ただ、進む方向次第では、ぬるい地獄が待ち構えているのがリアルだ。

選択によっては村社会のような共有が死と同義となる。環境に馴染んでいることだけが生きる動機となり、やがては目的すら生まれなくなる。その間は問題意識が生まれないので、ゆったりと機械的に生きることになり、手短に欲を解消し、時間だけがだらしなく過ぎていく。

無機質な人生観に躍動を。吐息が顔に触れるほどの距離感で見つめあう正宗と睦美の描写は、見ている側の心臓がどうしても高鳴ってしまう。同様に胸が高鳴ったのなら、あなたの心臓は忘れていないのだ。心が動くとどうしても心臓は反応してしまうのだ。

自分が置かれる環境で世界に亀裂がはいるほどの想いを吐き出したら、少なくとも周りに目的を知らせることはできる。もし、その想いが相手に届いたら、反動として魂に熱が混じり、心が黙っていられなくなる。叫ばれた側も「存在」を知ってしまうからだ。

本作は、個人の選択と社会の変革について深い洞察を提供している。中央集権的な共同幻想が崩れ始めると、人々の関係や感情にも変化が生じる。この動きは新たな熱を生み、制御不能な力となる。

しかし、最終的に未来への道を選ぶのは「あなた自身」である。『アリスとテレスのまぼろし工場』は、視聴者一人一人に問いかける。あなたは現状に留まるのか、それとも新たな未来に向かって歩み出すのか、答えは一つしか用意されていない。未来へ君だけで行け。


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