見出し画像

「器が大きいと語られる人」

「器が大きいですね」と言われて嫌な気持ちになる人は少ない。ただ、その評価に囚われ、追い求めることは危険性を孕んでいる。

「人の器」を見ることが習慣になり、人事の仕事をしていたこともあるので、「器が大きいと語られる人」とはどういうことか、を書き連ねてみたい。

私は物心ついたときから、他者を「器」で表現することが好きで、口癖・言い回しの一つになっていた。これは祖父が夕方になると欠かさずに見ていた相撲中継で、「〇〇はうつわがでかいな」と賞賛する台詞を聞いたことが私の中のトリガーだった。当時、幼稚園児だった私は「うつわがでかい」という表現が意味するものが分からず、さっそく「うつわ」を辞書で調べてみた。

「器(うつわ)ー入れ物のこと」

と書いてあったので、力士を想像して「入れ物=まわし」と勘違いした。

――次の日

やはり相撲中継を熱心に見ている祖父のところに行き、体が小さい力士が出ているところで、

「この力士は器が小さいね」

と祖父に話しかけたら驚いた眼で隣に座っている私を見た。祖父からすると、幼稚園児が突然「力士の器」を語りだしたのだから、ギョッとするのも無理はない。

「お、おぅ、まだ小結だからな」

祖父は幼稚園児の孫にどう返してよいか分からず、こう答えたのだろうが、会話自体は成立した。小結の意味がわからなかったので、どう返そうか悩んでいるところに晩御飯の準備で食事を運びにきた祖母。
祖父が隣に座る私の頭に手を置きながら、

「母さん、こいつは器がでかいぞ」

今起こったことを嬉しそうに祖母に説明しはじめた。

そこで「器」が人の才能や内面も意味していることに気付いたのだが、普段は恐い存在の祖父が笑っていたこともあり、せっかくなので黙っていた。これにより、私は他人を評価することに味を占めてしまった。

――怒りっぽい大人には「器が小さいですね」と言うと、驚いて黙る

――優しい大人には「器が大きいですね」と言うと、驚いて笑顔になる

大人の驚きの反応を見ることが楽しみになり多用していたところ、次第に私の真似をする「器を語る幼稚園児」が増殖し問題になった。
そして幼稚園では「器を語る」ことが禁止になり、この問題の原因であった私は母から怒られた。

この一件で、私は「器」という表現は、相手の内面を鋭く指摘するように伝わるため、勝手に評価をされたくない人がいる、ということに気付いた。
また、評価するには、多くの人が納得する「評価基準」が必要ということが分かり、「器」よりも「大きい」「小さい」という表現が重要な意味を持つことに気がついた。つまり妥当な評価項目を設定し、数量(評価値)化することが大事なのではないだろうか、というようなことを漠然と考えていた。

小学校に進学した私は「通知表」という存在に出会う。勉強の科目ごとの理解度が数値化されて出てくるこのシステムに、自分は間違ってなかった、と歓喜したことを覚えている。友人、親、身近な人に「喜怒哀楽の数値を振っていくこと」が小学生の私にとって楽しみとなり、同時に「自分自身の他人からの評価値」は何をしたら上がっていくのか、というゲームを始めた。本心ではしたくないことでも、他人(大多数)からの評価値が上がるのであれば率先して行う、というゲームルールに設定した。今思えば、歪んだ自己愛に基づいた社会不適合者である

何をするにしても「他人からの評価値」というフィルターを通して思考する習慣が定着してしまい、次第にこのゲームを楽しめなくなってしまった。その反動で「何に対しても反発をする」という、いわゆる反抗期と呼ばれるものが強く出ることになった。

その後、RPGというゲームジャンルが社会的なブームとなったが、「器」の重要性とともにその危険性を再認識することになる。似たような行為を繰り返し、ひたすら「経験値」なる数字を積み重ねて、「ステータス」なる仮想の数値を上げていくことに楽しみを見出す人が増えていくのを目の当たりにした。
これは、設定された「評価される行為」のみを繰り返すため、合理的思考により最適化することには長けているのだが、一方で「評価されない行為」を軽視し、自ら非合理的と判断したものは無価値と認識し、一切何もしなくなってしまうような思考に陥る。

いわゆる『極合理主義』+『歪んだ功利主義』に陥りやすい。

このシステムに慣れると、評価をしてくれる対象を求め、共依存関係が構築されがちで『パターナリズム』に嵌り、簡単には抜けられない状況になる。

また、自らの極合理主義的な行動が阻害されないように、極合理主義に基づいた行動を、周囲に対しても強制するような同調圧力を加える思考に向かう。『個人主義+自由主義』を極限まで突き詰めていくと自己、または自己が依存する相手中心の『全体主義+統制主義』に向かうという事象が起きる。「器」の重要性を認識することで、誰かが設定した「器」を満たすことのみを追い求めて過剰に従順になってしまう。これは皮肉であり悲しい習性だと思う。

得てして「器が大きい」と語られる人は「他人が設定した器」「社会が設定した器」では測れない人に対する賞賛だったりする。

あなたは「器が大きいと語られる人」になりたいですか?

もしYESなら、手っ取り早い手法を一つ書いておきます。当然手法はこれだけではなく、また実施するかどうかは自己責任でお願いします。

1)「器」の存在意義、つまり評価目的、評価理由について考える
2)「器」という評価概要、評価項目を認識する

⇒「器」の存在について根源的な視点を持つことが「器」に囚われない、隷属されない思考の第一歩となる。「器」の外形を理解したら

3)その「器」の評価基準、評価値の限界を超える方法を考える
4)その「器」では評価できないという評価を得る

⇒この時点で周囲から「器が大きいと語られる人」になっている可能性が高い。

5)違法的、脱法的、非倫理的、あるいは努力をせずに評価値の限界を超えると、高確率で「チーター(不正行為者)」という真逆の評価になるので、細心の注意を払う
6)そもそも規格外のものは、「賞賛される or 叩き潰される」かの二択になりやすいので、その対策も事前に準備しておく

「器」に収まるのも人生、「器」からはみ出るのも人生。というお話

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?