「コミュニケーション」の中を生きる。
・はじめに
読書感想文とあわせて、日々の中で感じたことや思ったことを書き綴っていたので、今回からそれも書いていこうと思います。
・感覚をいだく
例えば、ドヴォルザークが作曲した
「交響曲第九番第二楽章 新世界より」(通称「家路」)
を聞いて、「言葉にできない」郷愁のような、懐かしい思いにかられるのは私だけではないはず。この曲は、当時「新世界」だったアメリカへ渡った作曲者が、故郷への思いを込めて作曲したそうだ。私たちは彼が感じたその思いを「感覚として」抱く。
このように、音楽に限らず、私たちは日々、「感覚」を触発されながら生活を送っている。これは、一種の”コミュニケーション”なのではないか、と思っている。
・”いだかされる”感覚
世の中には様々なメディアが存在している。私たちはそれを通して、単に情報だけでなく、「楽しい」「悲しい」「癒される」といった感情に似た「感覚」を抱くことがある。先述の『家路』のように、これらは、制作者側が意図して受け手側の心に感覚をいだかせるようとしている考えることができる。
それがうまくいったときに、受け手側は、制作者が伝えたかった、言葉にできない「感覚」を、自らの心に抱くのではないかと思う。そうして、制作者から受け手側への”コミュニケーション”が成立する。
これは、テレビやSNS、音楽、本といった「形を持つもの」だけでなく、話し相手の行動や言葉の選び方といった「形をもたないもの」にも当てはまるだろう。そして、伝えたいことが相手に抱かせることができたとき、さらにそれが大多数の心に抱かせることができるようなものであれば、広く「共感」されるものになるのではないか。
さらに言えば、それを「どう伝えるか」に制作者の「個性」が現れるのではないかと思う。
文書を書いたり、プレゼンテーションなどで、よく「相手の立場に立ってみなさい」と言われるのは、「自分の心に抱くものを伝える前提ではなく、相手の心に抱かせて伝える」ことに気を付ける必要があるためなのではないか。
・”いだく”感覚
これとは別に、自然の情景から抱く「感覚」がある。これはとても不思議なものだ。
例えば梅雨の合間によく晴れた爽やかな日は、不思議と明るい気持ちになる。夏の日差しを浴びて輝く入道雲を見ると、賑やかな夏を期待する。ひぐらしの声に夏の終わりの寂しさを感じたりもする。これもまた受け手側として抱く感覚といえるのではないかと思う。
しかし、これには「制作者」が存在しない。敢えて言うなら「自然」か・・・?しかし「自然」とは様々な要素が絡んで、ひとくくりにできないものである。
しかし多くの人がそこから感覚を抱く。なので、人に「抱かせる」何かがあるのだと思う。
私はまだ、ここまでしか考えをまとめることができていない。もう少し整理出来たら、また書き綴っていきたい。
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