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反日のエロス~韓国の同化願望、ウリナラの『太陽がいっぱい』(後編)

二番手のジレンマ

 韓国の最終目的は「日本に取って代る」ことです。「なりすまし」はその段階に過ぎません。しかし、「なりすまし」が上手くいえばいくほど、冒頭紹介したように、サムスンを日本企業と思う外国人も多くなるといったような、彼らにとっては笑えない事態も生じます。
「ナンバー・ワンよりオンリー・ワン」という歌の文句がありますが、歴史上、韓国・朝鮮は、一度たりともあらゆる分野でナンバー・ワンになったこともなく、さりとてオンリー・ワンであると胸を張れる分野ももつことはできませんでした。韓国は常に東アジアのナンバー2に甘んじ、時にそれを誇り、時に卑下してきました。
 小中華思想から、支那を文化の父(ナンバー1)、自国を長男(ナンバー2)とし、日本を次男(ナンバー3)と見下してきましたし、大陸、半島、島国という彼らだけに通用する序列でもそうです。一方、近代化ではアジアで日本に次ぐ2番目で、つまりナンバー2。彼らがことさら「先進国」という言葉に固執するのも、アジアで最初の先進国・日本を意識してのものです。
 彼らのさらなる悲喜劇は、ナンバー1である日本が存在しなければ、自分たちがナンバー1になっていたはずだ、あるいは日本が無くなってしてしまえば、自分たちは繰り上げナンバー1になれるに違いないという美しい錯覚のもとに生きていることです。黄文雄氏は、もし日本による朝鮮併合と戦後のさまざまな支援がなかったならば、韓国の現在の国力はせいぜいバングラデシュ程度であったろうとしています。つまり、日本があったからこそ、彼らはナンバー2でもいられるということになります。これが、韓国が抱え続ける「二番手のジレンマ」です。「なり代わり」は、このジレンマの解消行為でもあるのです。

ウリに見る韓国人の同化能力

 これは他章でも触れると思いますが、実は韓国人は他者との同化・同調能力に長けている民族といえます。一度仲良くなれば、他者との境界が限りなく曖昧になるのが韓国社会です。韓国の大学キャンパスを巡ると、それこそゲイでもないのに、男の子同士で手をつないで歩いたり、芝生で膝枕する姿をよく見かけるといいます。
 先に、福田和子が同僚の下着まで身につけていたという話を書きましたが、韓国人がそれを耳にしたとしても別段奇異なことと思わなかったかもしれません。韓国では、友人間でパンツや歯ブラシを共有することはごく普通のことなのです。海外留学などで韓国人学生と部屋をシェアした日本人学生が困惑するのがこの点です。カナダに留学経験ありの知人の娘さんの話ですが、同室の韓国人女子大生が彼女の服や靴を勝手に拝借することが続いたので、やんわりと苦情を言ったら、「友だちと思っていたのに!」と、逆に憤慨されたとのことでした。皮膚と皮膚、体液と体液でつながってこそ「真の友人」を実感できるようです。
 韓国人の人間関係を構成する特徴として、よく取り上げられるのが、ウリとナムという概念でしょう。本来「われわれ」を意味する「ウリ」ですが、この場合は「内輪」というふうに訳すとわかりやすいかもしれません。自分を中心に家族、血族、本貫、地縁、友人、学閥と、さまざまな「ウリ」が構成されます。その外側がナムです。てっとりばやく翻訳すれば、ナム=「赤の他人」ですが、ニュアンス的にはもっと排外的な響きがあります。日本語のGIRI(義理)に相当する外国語が存在しないのと同じく、おそらくこのウリとナム、それに恨(ハン)は、外国語に翻訳は不可能な韓国人特有の情緒といえるでしょう。
 韓国人と少し仲良くなって、相手から「ウリ」と認識されると、精神的に同化したものと見なされるようです。自分と相手の自我の境界がはなはだ曖昧になり、(日本人から見れば)際限なく甘え、依存し合う関係になります。自我を共有するのですから、下着や歯ブラシを共有することなどなんの不思議でもないのです。
 幼児は母親を自分と同化した存在と認識し安心します。自分と母親を同一の人格と考えるのです。したがって、自分と母親を引き剥がそうとする存在を敵視します。父親に対してそれを感じるのが、いわゆるエディプス・コンプレックスです。
 もう少し大きくなり、母親と異化が完成した年齢では、先にも記したとおり、仲のいい「○○ちゃん」への同化が起こります。韓国人はここから一歩も二歩も進んで「ウリ」という枠内での同化が起こるのです。
 韓国人は「情の民族」を自認し、「日本人は情が薄い」などといいますが、この場合の「情」は、同化の度合いを意味します。自我を共有した者同士で交わされる"情"ですから、多分に自己憐憫、自己愛的な投影をはらんでいます。「情が薄い」とはすなわち、同化能力が弱いということです。前出の知人の娘さんは、韓国人のルームメイトからすれば、さぞや「情の薄い」人間と思われたことでしょう。

ウリと群魂

 Naver日韓翻訳掲示板があったころ、私もよく覗いておりましたし、何度か書き込みをしたこともあります。私の韓国への興味はその体験から始まったといっても過言ではありません。驚いたのは、こと対日本になると、立場や年齢を越え、いともたやすく「ウリ」を形成してしまうようでした。
 これは神秘学の領域の言葉ですが、メダカやイワシといった群を形成する小動物は個体としての意志とは別に群としての意志をもっているとされ、これを群魂(グループ・ソウル)といいます。たとえば、イワシが捕食者である中型魚に追われて群を割っても、また自然と群を形成するのは、群魂の働きだそうです。もちろん、生物学上確立された学説ではなく、一種の仮説に過ぎませんが、この仮説を韓国人に当てはめると容易に理解できるというのも面白いところです。つまり、韓国人にとって、この群魂にあたるのがウリ意識ということになります。

イワシは群を形成することで体を大きく見せ、あるいは群れを割ることで相手を幻惑することで、捕食者から身を守ります。

 メダカもイワシも単体では実に脆弱な魚です。群による意志をもつことで、彼らは過酷な自然界の中で強大な捕食者に伍してきたのです。歴史的地政学的に見て、常に強国に脅かされてきた朝鮮民族にとっては、同化もまた生き抜くため武器だったのかもしれません。
 ついでにいえば、弱い生き物が強い生き物の外見を擬態することも自然界にはよくあることです。ある蛾の幼虫は一対の眼状紋(眼のような模様。威嚇するためのものだといわれています)によって背中全体をマムシの頭部に見せて、天敵である鳥類からの捕食を逃れようとします。朝鮮民族の民族的特徴でもある事大主義もこの観点から分析してみるのも興味深いのですが、少々お話を広げすぎの感もあるので、またいずれの機会に譲りたいと思います。

毒ヘビに擬態して天敵を回避するスズメガの幼虫。

ナムと差別意識

 ウリ同士ならば、たとえトゲ一本刺さっても、まるで痛みを共有するかのように心配、同情、はなはだしくは一緒に苦しんでくれるのです。とりわけ韓国人は、痛み、悲しみ、恨みといった負の感情における共感能力に優れた民族といっていいでしょう。個体の苦痛を全体(ウリ)の苦痛として感受することができるのです。
 その一方、ナムと見なした相手には、冷淡なほど無関心な態度を示します。金文学氏と金明学氏の共著『韓国民に告ぐ』(詳伝社)によると、韓国には「ナムなら死のうと生きようと」という言葉があるそうです。たとえば、韓国では道で人とぶつかっても平気で行き過ぎていきますが、それはぶつかった相手が所詮ナムだからです。
《韓国のはなはだしい「差別意識」も結局、この「ウリ=身内」と、ウリでない「ナム=よそもの」に対する差別に起因するのである。
 かの悪名高い地域差別は、ウリではない「ナム」に対する極端な不信と蔑視以外の何物でもない。ウリの領域ではないナムの領域で暮らす人だから、不信感をもっても差別してもかまわないという意識が先立つわけだ。たとえば全羅道は慶尚道のウリではないから、いわれのない差別も極めて当然と見なされるわけである。》(金文学・金明学『韓国民に告ぐ』祥伝社黄金文庫)
 ここでは全羅道差別の例が出てきましたが、済州島出身者も一般的韓国人の感覚ではナムに入ります。在日韓国朝鮮人も、満州の朝鮮族も基本的にナムあつかいです。
 韓国から見た日本はむろんナムに他ありませんが、ある部分ではウリでもあります。韓国に観光へ行って、「この国のどこが反日なの?」と驚くほどの歓待を受け、人々の親切や人情に触れて帰ってくる日本人も少なくありません。その人たちが韓国国内でのすさまじいまでの全羅道差別、済州島差別の話を耳にすればさらに驚くことでしょう。もちろん、ケース・バイ・ケースですが、全羅道、済州島出身者やそれらをルーツとする在日同胞よりも、日本人が上位に置かれることも珍しくないのです。

未分化の愛

 韓国人は積極的に日本人を「ウリ」に入れることはありませんが、少なくとも日本人とは「ウリ」という概念を共有できるはずと思っているふしがあります。もっとも、この場合、日本人が「ウリ」の概念を理解してしかるべきという意味合いがあります。兄の心を弟が理解するのは当然だということです。
 しかし、彼らのいうウリというのは、単なる仲間意識や共同体を超えた、彼らだけが了解しうる自我の同一化のことですから、当然日本人の理解が及ばない領域にあります。下着や歯ブラシを共有することに抵抗感を示す日本人に、いきおい「薄情」「裏切られた」という感情を抱くことになるのです。はなはだしくは、日本人は口先では韓国が好きだといいながら、内心はわれわれをバカにしているのだと解します。
 嫌いなはずの日本から技術支援をしてもらって当然といった態度でいられるのも、韓国人が無意識のうちに日本にウリ意識を求めている証拠です。ただし、この場合、ウリに入れてもらいたがっているのはあくまで日本の方、でなければなりません。なぜなら、同化は下位が上位に求めるものであって、韓国が日本の下位にあるということは、彼らの神学上、認めるわけにはいかないからです。
 韓国人はよく「日本人が(韓国人に)無関心なのが一番腹が立つ」といいます。そもそも「ナム」の関係が前提なら、無視・無関心に腹を立てる必要がありません。その意味では日本を「ウリ」だと思いたいのです。というか、今いったように、「日本がウリに入れてほしがっている」と思いたいという方がより正確かもしれません。「あらヤダ、イルボン君たら、私に気があるみたい。困るのよねー」などと一人合点しているクラスのケメ子ちゃんといったところです。当のイルボン君はケメ子ちゃんのことなど何も意識していないのですが。
 韓国が何かにつけ、日本の足を引っ張ったり、さまざまな形でわれわれの神経を逆撫でてくるのも、好きな同級生に振り向いて欲しくてわざと意地悪をする小学生の心理に近いものがあります。好きな女の子の上履きを隠して、そっと物陰から様子を見ているアレです。当然、そんなことをすれば、相手には嫌われるのですが、彼にとっては、その「嫌われること」が相手との関係性になってくるのです。無関心でいられるよりは、百倍も相手とつながっているという安心感が得られるのです。これは、まだ恋愛というものを認識できていない未分化の感情といえます。
 この時期のリピドーはまたしばしば同性に向かいます。驚くことはありません。特に、現在とは違い、男女交際の禁忌が強かった時代は、擬似恋愛としての少年愛はごく普通のことでした。江戸川乱歩の初恋の相手は男の子でしたし、里見弴は私小説『君と私』の中で、少年時代、兄(有島武郎)の親友・志賀直哉に恋をしていたことを告白しています
 やはり、韓国の日本に対する思いは、どこか未分化、未成熟な親近感、喩えていうならば、擬似同性愛と異性愛の中間にあたる感情であると解するとしっくりいきます。
 何度もいいますが、韓国は決して日本が嫌いなのではありません。同化したいほど好きなのです。未分化な愛情は屈折した形を取るので、日本人は往々にして韓国の反日的な態度ばかりが目につくのです。
 このよじれた心の糸をほどく術は日本にはありません。韓国の自覚に期待するしかないのです。
 隠した上履きがどこにあるのかを知っているのは韓国の方なのですから。

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(初出)『韓国呪術と反日』(青林堂)


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