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新報&タイムス誕生秘史~沖縄、そして敗戦日本に仕掛けられたメディアという紙の暴風

本土への同化を積極的に勧めていた旧・琉球新報

 沖縄の言論を支配するのが、琉球新報と沖縄タイムスの二大地方紙だ。両紙合わせて沖縄県の新聞シュアの90パーセント以上を占める。その論調は実に似ており、ありていにいえば左翼的、もう少し具体的にいえば、反米、反基地、反本土、であり、近年では急進的な沖縄独立論に傾斜を強めている。むろん、安倍政権には敵対的だ。
 琉球新報は明治26年(1893)9月の発刊であるから、その歴史は古い。もっとも、現在発行されている琉球新報とは厳密な意味では別の新聞といえる。ここでは便宜上、旧新報とする。
国立国会図書館で観覧できるもっとも古い旧新報の日付は「明治三十一年四月十一日号」となっている。2面構成(つまり両面一枚)で、面白いのは第2面の上部欄外に「神武紀元二千五百五十三年」と皇紀が記されていることだ。このことからもわかるように、反本土どころか、本土への同化を積極的に推進する論調が目立つ。ちなみに琉球処分による廃藩置県で琉球が沖縄県になったのは明治12年(1879)のこと。
「明治三十一年五月十一日号」の第1面中ほどに、東京市京橋区に徴兵保険株式会社が設立されたという記事がある。この年、沖縄県も徴兵令の対象となっており、突然の徴兵で一家の働き手がいなくなった場合の備えに、保険に入ろう、というわけで、これを読んでも、彼らが大日本帝国の一員として徴兵を義務として認識していたのがわかる。
 旧新報の設立者は、首里豪族の血を引く実業家の高嶺朝教(沖縄銀行初代頭取)、太田朝敷らのエスタブリッシュメントで、そのためか、庶民からはややエリート志向の強い体制的な新聞とみられていたようである。
 昭和15年、新聞統制により、沖縄朝日新聞、沖縄日報と統合、沖縄新報となり、戦時中も壕の中に活版印刷機を持ち込み発刊を続けるが、敗戦により沖縄新報は解散する。


旧・琉球新報は、西暦、元号、そして皇紀が表記されていた。神武紀元二千五百二十八年は明治31年。

うるま新報から琉球新報へ

 敗戦間近の昭和20年7月26日、ウルマ新報という新聞が発刊された。もっとも、創刊号には新聞名がなく、ウルマ新報と名乗ったのは第2号からである。当初はガリ版印刷で発行されていたが、記者が防空壕の中に残る活版活字をひろい集め、その甲斐あってか、第6号から活字印刷・タブロイド判にグレードアップしている。
翌21年5月26日号から、うるま新報と紙名が改まった。ニュース源のほとんどは米軍政府からの提供で、それもそのはず同紙は海軍大尉のサトルスの統制下にあったのである。初代社長は、のちの参議院議員(日本社会党)・島清。島は沖縄ではなく東京の出身者で、戦前より労働運動に挺身した社会主義者であった。島は昭和22年、共産党系の瀬長亀次郎に社長職を譲っている。
 昭和27年、サンフランシスコ条約締結を機に、うるま新報は、戦前の老舗的新聞である「琉球新報」の紙名と題字を継承(法人としては別組織)し、リニューアル。これが、現在に続く琉球新報である。

うるま新報「尖閣列島訪問記」

米軍政府と密接な沖縄タイムス
 
 一方の雄、沖縄タイムスは米軍政下の昭和23年(1948)7月1日、ガリ版2面構成の新聞としてスタート。実は前々日の6月29日には、0号ともいえる号外が出ているが、この号外で米軍軍票への通過切り替えをスクープしたことは同社社史にも記録されてる。
 社長の高嶺朝光は名前からもおわかりのように、旧新報の創立者である高嶺朝教の長男である。編集局長(常務)の豊平良顕は戦前、大阪朝日新聞那覇通信部の記者を経て沖縄新報の編集局長を務めた人物で、他に、前田宗信、具志堅政冶ら主要スタッフの多くも沖縄新報の残党であり、その意味ではむしろ旧新報の血をより濃く受け継いだのは、タイムスの方だったかもしれない。ちなみに、同紙の専務だった座安盛徳は共産党員だった経歴がある。
 新報が米軍政府の半ば御用新聞であったのに対し、タイムスは「純粋新聞人による新聞」を標榜してはいたが、米軍政権の庇護にあったのは同じで、創刊号の1面第1記事が軍政府副長官W・H・クレイグ大佐と同特務部長R.E・ハウトン大尉の祝辞であることが何よりの証拠だろう。二人の祝辞の間に「沖縄再建の重大使命 軍民両政府の命令政策を傳達 国際及地方の情報を報道せよ」との文字が躍っているのが示唆的だ。

ガリ版時代の沖縄タイムス

 タイムスは昭和24年(1949)6月に待望の活字化がなるが、その間も記事中、あるいは執筆者(発言者)に米軍人や軍政府要人の名前を見かけない日はない。昭和25年元旦の1面第1記事は琉球軍政長官ジョセフ・シーツ少将の「年頭の辞」であった。シーツ長官の名は同日付の巻頭言にも登場する。
《新春は明けたこの年を全流の住民が希望の年と呼ぶのもシーツ政策による逞しい諸事業が各面に実現を見るからである。》とし、シーツの業績がつらつらと並べ立てられているのだが、そのうちのひとつが「軍工事の大規模な民間請負事業」があるのは面白い。当時の沖縄の置かれている状況が垣間見られる。
 シーツは沖縄のインフラ設備や雇用の拡大などで当時は善政の人として語られることが多いが、現在に至る基地の恒久化は彼の施政下で決定づけられたといってよく、現在の沖縄での彼の評価は毀誉褒貶といったところで、それはちょうど本土におけるマッカーサーの評価にも似ている。


ジョセフ・R・シーツ。現地沖縄の人とも親しく接し、決して傲慢な態度はとらなかったという。

日本軍=悪魔を刷り込む『鉄の暴風』

 新報もタイムスも米軍政府のダイレクトな影響下にあり、内部に左翼分子を抱えていたということで共通している。米軍と左翼という組み合わせは一見奇異に見えるが、GHQが隠れコミュニストの巣窟であり、敗戦国民の洗脳を含めた占領政策が米帝国主義とコミンテルンの合作によって始まったというのは今では周知の事実である。軍政府下の沖縄はGHQにデザインされた戦後日本の、まさに縮図といっていいのかもしれない。
 その米軍政と左翼新聞人が手を結んで書いた「聖典」こそが昭和25年刊行の『鉄の暴風』(沖縄タイムス社)なのである。
『鉄の暴風』をひとことでいえば、慶良間諸島における集団自決を含め、沖縄戦における沖縄県民の受難の書だ。そこに描かれる日本軍は悪魔の集団であり、敵であったはずの米軍がむしろ解放軍のような扱いになっている。
《なお、この動乱(沖縄戦)を通じ、われわれ沖縄人として、おそらく、終生忘れることができないことは、米軍の高いヒユーマニズムであつた。国境を民族を、越えた米軍の人類愛によつて、生き残りの沖縄人は、生命を保護され、あらゆる支援を与えられて、更生第一歩を踏み出すことができた。われわれは、そのことを特筆した。米軍の高いヒユーマニズムを讃え、その感恩を子々孫々に伝え、ひろく人類にうったえたい。戦いの暗たんたる記録のなかに珠玉の如き光を放つ、米軍のヒユーマニズムは、われわれをほつと息づかせ、よみがえらせ理解と友情がいかに崇高なものであるかを無言のうちに教えてくれる。血なまぐさい戦場で、殺されもせずに、生命を保護されたということを沁々(しみじみ)と思い、ヒユーマニズムの尊さをありがたく追想したい》
 これは現在復刊されている朝日新聞社版では削除された、タイムス社版だけに記されている『鉄の暴風』前書きの部分だ。米軍を讃えるだけ讃え、短い文章の中に「ヒューマニズム」という言葉がこれでもかと出てくる。民間人が潜む壕(ガマ)にガソリンを流し込み、.火炎放射器で焼き殺す洋鬼のどこが、ヒューマニズムの軍隊なのか、無学な筆者に誰か教えてほしいものだ。

『鉄の暴風』(沖縄タイムス)。これは本土復帰後(1975年)に刊行された復刻本。古書店などで比較的入手しやすい。

 説明するまでもなく、明らかにこれは米軍政府の意向にそって書かれたプロパガンダ戦史なのである。執筆者の一人、太田良博はタイムス入社以前、琉球列島米国民政府(USCAR)に勤務していたことがわかっている。しかし、むしろ『鉄の暴風』誕生のキーマンは前出の座安盛徳だろう。座安は琉球米軍司令部 (RYCOM) の許可の下、この書の企画編集に携わったという。まさしく、米軍政府と左翼分子の合作の賜物である。
 監修である豊平良顕によれば、同書のプロジェクトはタイムス社設立当初から始まったという。もしかして、沖縄タイムス社は、米軍政府が『鉄の暴風』を発刊させるために作った情報工作機関をルーツとするのかもしれない。
 反基地闘争のイデオローグと化した現在のタイムス(それに新報も)にとっては、かつて米軍をヒューマニズムあふれる解放軍と礼賛していた事実は末梢すべき過去であろう。現にオリジナルの前書きはないものとされているのは、先に記したとおりである。
 しかし、沖縄戦の日本軍=悪魔の軍隊というタイムス史観は今も生き残り、沖縄の、そして日本の言論界を呪縛し続けるのだ。

初出「反日マスコミの真実2015」(オークラ出版)


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