在日は弱者にあらず(後編)
朝鮮人と日本共産党
戦後合法政党として再スタートした日本共産党は、「合法」ゆえに表立ってできなかった騒乱や火炎瓶テロを朝連メンバーに下請けさせていた。昭和二十四年、朝連はGHQによって解散させられるが、昭和二十六年には朝鮮統一民主戦線(以下、民戦)として復活。それに先立つ昭和二十五年、日共朝鮮人党員によって朝鮮祖国防衛委員会中央本部(以下、祖防委)が組織されている。この主要メンバーは日共中央委員会民族対策部(以下、民対)で、実態は祖防委=民対であり、ともに民戦の裏の顔であった。祖防委は、祖国防衛隊、決死隊、親衛隊などの実行武闘部隊を束ねていた。この当時、日本共産党の全党員約七千人のうちおよそ千人が朝鮮人だったという。
この武闘部隊の中でも最も過激で実動的だったのは祖国防衛隊(以下、祖防隊=ソバンテ)で、阪神教育事件(昭和二十三年)やメーデー事件(昭和二十七年)といった流血の騒擾事件をいくつも引き起こしている。そのうち、ここでは阪神教育事件を振り返ってみたい。
敗戦直後、朝鮮人は全国で、焼け残った小学校の教室などを借りて「国語教習所」の看板を掲げた。これが朝鮮学校のルーツである。当初は、朝鮮人子弟の帰国の準備のために朝鮮語を教えることを名目としていたが、昭和二十二年、事実上、朝連傘下の学校になってからは急速に赤化し思想教育の場となった。これを憂慮したGHQは、文部省の指導要領に従うよう再三要請したが、朝鮮学校側は拒否。業を煮やしたGHQは昭和二十三年三月、全国の朝鮮学校閉鎖令を出した。同年四月、朝連はこれを「教育の弾圧」だと大反発し、在日を多く抱える関西地区では祖防隊に扇動された朝鮮人と日共党員六千人が蜂起し、大阪府庁に乱入、知事を吊るし上げたほか、破壊活動の暴挙にいった。これにアメリカ軍と武装警察が激突、朝鮮人青年一人が射殺される惨事となった。兵庫県下でも同様の暴動が起こっている。これらを一般に阪神教育事件といい、朝連側は阪神教育闘争と呼んだ。
朝鮮人学校という治外法権
この騒動後、GHQ側(ボルトン少佐)が妥協案を示し、六年間の期間限定で朝鮮学校を公教育に組み入れることで朝連側も合意する。東京都は都立朝鮮人学校を新設、他の自治体は既存の小中校の分校という形でこれを許可した。いまはすっかり忘れられているが、公立、つまり税金で朝鮮学校がまかなわれていた時代があったのである。
しかし、朝鮮人学校側と取り交わされた約束(校長は日本人、教員は日本人・朝鮮人同数とする。朝鮮語など民族教育は課外授業とし週五時間を上限とす、など)はことごとく破られた。一応、日本人校長はいたが実権はほとんどなく、朝鮮人教員がすべてを取り仕切っていた。授業のほとんどは朝鮮語で行われ、朝鮮語が話せるというだけで、教員資格のない者が教壇に立ち、日本人教員は隅においやられて行く。あるいは、日本人教員のささいな失言をあげつらい、朝鮮人教員、PTA、生徒が総出で吊るし上げ退職に追い込むという事件も実際に起こっている(横須賀市立諏訪小学校分校)↓。
昭和二十五年、朝鮮動乱が勃発。日本は米軍の兵站基地となると、日共および祖防隊は、後方攪乱部隊として暗躍。昭和二十七年六月、軍需物資輸送の列車が停車してある大阪府の国鉄吹田駅や近隣の交番を襲撃、火炎瓶を投げ込むなどの破壊活動(吹田事件)を行い、返す刀で旧陸軍工廠枚方製造所(当時の所有者は小松製作所)に侵入、事件爆弾を爆発させている(牧方事件)。
こういった一連の破壊、騒擾事件には朝鮮人学校の生徒もさまざまな形で参加させられている。ある朝鮮高校の女学生は授業もそっちのけで、毎日のように買い物かごに火炎瓶を隠し運搬していたという(金賛汀『朝鮮総連』)。
また、東京荒川区の都立第一朝鮮人小学校では、理科の実験と称して火炎瓶の作り方を教えているという読売新聞のスクープもあった。町田町の都立第十二朝鮮人小学校では祖防隊のジュニア版の少年祖防隊が組織され、やはり授業の一環と称して竹槍訓練が行われていた。
民戦vs建青 血の抗争
蜜月だった日共と民戦との関係も意外なことで終焉を迎えていく。昭和三十年五月、民戦六全大会で、民戦を発展的解散し朝鮮総連を新たに設立することが決定された。同年七月、日本共産党も第六回全国協議会で、それまでの暴力革命路線を放棄することが決議されている。どちらにしろ、共産党の暴力を担っていた旧民戦一派は党内での行き場を失うことになる。こうして総連は共産党を離れ、正式に朝鮮民主主義共和国の外部団体の道を選び今日に至るのである。
話を少し戻そう。金天海一派によって粛清され朝連から追われた朝鮮右派グループは、昭和二十一年十月、やはり戦前投獄され敗戦によって出獄した朴烈を初代団長に、在日本朝鮮居留民団(のちに在日本大韓民国民団に改称)を組織している。これが民団だ。
朴烈は無政府主義者として知られ、関東大震災時、愛人の日本女性・金子文子とともに治安維持法違反で逮捕されたのち、予審で天皇暗殺を計画していたと供述し大逆罪で死刑判決を受けていた(恩赦で無期懲役に減刑)。一方、取調室で文子と抱擁してみせるなど、かなり人を喰った人物でもあったらしい。そんな彼も獄中で転向、出所時には強固な反共主義者になっていた。
民団の武闘青年集団が朝鮮建国青年同盟(建青)である。以後、韓国系の民団と北朝鮮系の民戦は在日社会の主導権を巡って血で血を洗う抗争を展開していく。ヤクザの出入りと変わらない。敵の幹部を拉致し拷問にかける、鉄パイプや日本刀で事務所を襲撃する、物陰からピストルで撃つ、などやり方も実に荒っぽい。側杖を喰った日本人も多かっただろう。この時期、建青には崔永宜という空手使いの猛者がいた。鉄パイプをもった民戦の鉄砲玉十数人を素手で全員半殺しにしたという武勇伝をもつ、この崔はのちの大山倍達である。
当時の民団幹部で、自身も朝連によるリンチを経験している権逸氏は『回顧録』の中で、ただでさえ「第三国人」の行状に憎悪を抱いていた日本人の胸に《朝連と建青の絶え間ない抗争は、この憎悪感を増幅させた上に、新たな軽蔑感を生じさせたのではないだろうか》と記している。一般の日本人の間に、「朝鮮人=怖い」という共通認識がこうして植え付けられていったというのである。これを「差別」と言われてはたまったものではない。
朴烈は同じような境遇をもつ民戦金天海に対し強烈なライバル心と敵愾(てきがい)心をもっていたようで、建青の配下に金天海の殺害を命じたこともあったが、これは実現しなかった。近年、朴烈事件を題材にした韓国映画『金子文子と朴烈』が日本でも公開され、彼の名をこれで知ったという人も多いだろう。共産党議員の吉良よし子氏などツイッターでこの映画を絶賛していたが、自分の所属する党の大先輩である金天海を殺そうとした男の映画を称賛するというのはなんとも滑稽な話だ。もっとも彼女、日本共産党が数々のテロや騒擾(そうじよう)事件を起こし、過去殺人まで犯している暴力集団であったこともおそらくご存じないであろう。
昭和の裏面史をつくった在日ヤクザ
最後に在日ヤクザについても言及があるようだ。
《二〇一八年、インディアナ大学のエリック・ラスムセン教授と共同発表した「日本の社会追放者 政治と組織犯罪」という論文で、暴力団の構成員の多くが在日と被差別部落民であるとして、「福岡に基盤を置く工藤會の高位級組織員の一人は、あるドキュメンタリーで、組織員七〇%が部落民か韓国人だと言った」と説明している》(中央日報二〇二一年三月五日)
前出『ヤクザと妓生が作った大韓民国』の中で菅沼光弘氏も四代目会津小鉄会・高山登久太郎(姜外秀)から聞いた話として「ヤクザの全構成員のうち六〇%が同和地区の出身で三〇%が在日韓国朝鮮人」と語っている。これらの数値は無論、統計的なものではなく、ヤクザ社会に身を置くプロの体感的数値といっていいだろう。ヤクザ世界において在日は数の面でも質の面においても一画をなす勢力だということである。
在日ヤクザのルーツもまた、敗戦の焼け跡を闊歩していた「第三国人」アウトローたちであるのはいうまでもない。警察力も及ばぬ彼らの横暴の前に体を張って対抗、街の治安を守ってきたのが、いわゆる任侠と呼ばれた人たちだ。関西では神戸を拠点とした田岡一雄三代目組長率いる山口組、関東ではテキヤを束ねる関東尾津組、新興愚連隊の安藤組などが有名である。長い抗争の時代を経て、山口組などの巨大組織はやがて、敵対していた在日ヤクザを吸収していくことになる。高度成長期を迎え裏社会の潮目も大きく変わったのである。
両者を結びつけるキーパーソンのひとりが、右翼の大立者・児玉誉士夫である。裏社会や自民党に強い発言力をもつ児玉は、幼少時代を朝鮮で過ごしたこともある親韓派で在日社会にも顔が利いた。彼の取り持ちで、在日ヤクザの大物として知られる東声会の町井久之(鄭建永)が田岡山口組組長と兄弟の盃を交わすことになったのは有名な話である。
町井は、日韓基本条約締結の影の功労者といわれ、政府間ではなかなか手の届かない裏の交渉を一手に引き受けていたのだ。町井の経営する赤坂と湯島の妓生(キーセン)ハウス「秘苑」は、自民党政治家と韓国側要人の密会の場として機能していたという。町井は民団中央本部の顧問の肩書ももっていた。東声会の幹部にはあの力道山も名を連ねている。
また、在日ヤクザはKCIA(韓国中央情報局)を通じて時の朴正煕軍事政権ともつながっており、日本国内におけるさまざまな裏仕事を担っていた。有名なところでは、一九七三年、民主活動家でのちに大統領になる金大中が東京九段のホテルから拉致された、いわゆる金大中事件で、これには町井や元柳川組組長の柳川次郎(梁元錫)が深く関与していたといわれている。
他にも在日ヤクザと自民党との関係など、興味深い話は尽きないが、紙面の都合上、またの機会に譲(ゆず)りたい。
一般に在日韓国・朝鮮人、とりわけ一世は「差別と貧困と戦いながら健気に生きるアポジ、オモニ」のイメージで語られがちだ。それ自体を否定するつもりはない。しかし、一方で、戦後の荒廃の中を暴力で駆け巡り昭和の裏面史をつくってきた在日の血の轍(わだち)もあるのである。後者を語るのは、決して差別でも偏見でもない。むしろ、たむけであると筆者は思っている。
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