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ズベ公は歌う

ズベ公とスケ番

僕が中学生になったころ、「ズベ公」という言葉はすでに死語に近かった。

もちろん、「非行少女」(この言葉も今ではなつかしい響きがある)を意味することぐらいはわかるし、後述するように映画などの商業世界では、まだまだバリューのある名称だったのだろう、単に若者言葉でなかったということだ。僕ら中学生にはどちらかといえば、「スケ番」の方がずっと身近な存在だったと記憶している。

スケ番とズベ公はどこが違うのか。あくまでこれはイメージの問題になってくるが――、スケ番とは女番長の意味であるから、そのシマは当然、学校とその周辺ということになる。ファッションもあくまで制服(セーラー服)が基準で、「番長」という属性からははみ出さないのが特徴である。

一方、ズベ公のフィールドは盛り場であり、なじみのスナックやサテン(喫茶店)を根城にしている。服装は私服で、彼女たちが昼間学校に通っているのかは不明である。スケ番もズベ公もリーダーを中心に少人数のグループで活動し、グループ内にはゆるやかな序列が存在する。まあ、そんなところだろうか。

空手バカ一代』のズベ公

中学時代、「ズベ公」という言葉を目にした最初の記憶は、梶原一騎・つのだじろうの劇画『空手バカ一代』である。道場破りの果てに、収監された留置場を脱走、武装警官をなぎ倒し夜の街に紛れていった有明省吾(大山倍達の弟子)に、一人の少女が声をかける。
「あんた強いんだね。イカすわ」「ちぇ、ズベ公か」。こんなセリフのやりとりだったと思う。確か、このズベ公の一人称は「あたい」である。「あたい」は、ズベ公には似合うが、スケ番には似合いそうもない。これも両者の違いを考察するときのひとつの基準となるかもしれない。

『空バカ』に登場するズベ公。ズベ公は夜の盛り場を徘徊する。今だったらCoaboの世話になっていたのだろうか。
まじめ少年の有明君に「とっとと消えうせろ」は似合わない。
こちらはアニメ版『空バカ』のズベ公。

 結局、有明はズベ公が用意した自動車を無免許で暴走させ、ハンドルを切り損ねて電柱に激突、非業の死をとげるのである。現在では、『空手バカ一代』で描かれる内容の多くがフィクションであり、有明省吾にも複数のモデルがいて、キャラクター自体は原作者の創作によるところが大きいことがよく知られている。
実は、劇画で描かれる有明省吾の最期は、60年公開の日活映画『すべてが狂っている』(鈴木清順監督)の結末とそっくりである。主演は川地民夫。彼と同乗し暴走事故の道連れになる不良少女役はこれがデビュー作になる禰津良子(ルビ※ねづ)。禰津の役どころは、マンボズボンやパラシュートスカートをはいて夜な夜なダンスホールに出没するような少女で、当時の道徳観からすれば、かなりの不良娘、非行少女ということになるが、いささか、僕の「ズベ公」イメージとは距離がある。やはり、「ズベ公」との出会いは70年代を待たなければ、ならないのかもしれない。

大信田礼子の『ずべ公番長』

 さて、70年代である。先ほども述べたとおり、エンタメの世界では「ズベ公」ブランドはまだ一定の商品価値を保っていたようだ。思いつくのは、大信田礼子主演の東映『ずべ公番長』シリーズである。70~71年の間に『ずべ公番・長夢は夜ひらく』、『ずべ公番長・東京流れ者』、『ずべ公番長・はまぐれ数え唄』、『ずべ公番長・ざんげの値打ちもない』と4本作られている。内容は毎度似たようなもので、要は大信田礼子がミニスカートやホットパンツ姿でハイキックをかましたり、仁義を切ったり、キャットファイトをしたり、全裸すれすれのお色気を見せたりの映画で、客もそれらの要素さえあれば満足したのであろう。正直ストーリーなんてはどうでもよかったのだ。

ズベ公+番長という強烈なネーミング。梅宮辰夫の『不良番長』シリーズの妹版というのがコンセプトか。実際、辰兄いは大信田礼子の母親から、悪いムシがつかないようにガード役を仰せつかっていたらしい。

 とはいえ、アクション女優という存在がまだ確立されていなかった時代、大信田礼子ののびやかな回し蹴りはなかなかみごとだった。大信田は、それ以前にも『不良番長』シリーズやテレビドラマ『プレイガール』で、同様のアクションを披露しており、これが彼女の売りでもあったのだろう。映画での大信田の一人称は「あたし」で「あたい」ではなかったが、彼女のちょっと幼い、舌足らずなセリフ回しが、どこか可愛げのある”やさぐれ感“をかもしていた。
 その大信田だが、実際は、「ズベ公」どころか、かなり身持ちの固い娘だったといわれ、『同棲時代』主題歌の作曲家である都倉俊一は、大信田が処女であったことに感激し結婚を申し込んだのは有名な話(のちに離婚)。『ずべ公番長・夢は夜ひらく』で大信田と派手な立ち回りを見せていた夏純子にしても、ダイニチ映配時代の日活の『女子学園』シリーズでの不良少女役を買われての登板だろうが、彼女もどちらかというと、ズベ公というよりも、後年見せるクールビューティな悪女の方がハマっていたと思う。
 そういえば、ズベ公+バイカー物ともいえる『野良猫ロック』シリーズもダイニチ映配時代の日活作品だった。となれば、ズベ公映画の元祖はダイニチ日活か。少なくとも一連の作品が、東映B級作品群に何らかの影響を与えたのは確かなことだろう。もっとも、そこいらへんに関しては僕ではこころもとない。藤木TDCさんか杉作J太郎さんあたりにぜひ考察していただきたいものだ。

ズベ公アイドル路線の登場

「ズベ公歌謡」というワードで検索すると若干だがヒットがある。杉本美樹『0のバラード』や水沢夕子『私は好奇心の強い女』がそれで、前者は『女番長流れ者』(72年)のテーマ曲、後者は『恐怖女子高・暴行リンチ教室』(73年)(ともに東映)から派生したイメージソングで、劇場作品の副産物という印象が強い。とはいえ、映画を離れて純粋に楽曲として楽しめないかといえば、決してそうではなく、『0の~』は山崎ハコを思わせる恨み節歌唱が心に沁みるし、『私は~』はBS&Tばりのブラスロックを聴かせてくれるのだ。
 ズベ公ソングはやはり、ダイニチ映配や東映のスクリーンの中にしか存在せず、同ジャンル映画が衰退するにまかせて消えていく運命かと思われていた70年代後半、バリバリのズベ公ソングをひっさげて二人の新人が立て続けにデビューする。『新宿ダダ』(77年)の山川ユキ、そして『ダウン・タウン・ベイビー』(78年)の岩城徳栄だ。
 デビュー時、山川は18才、岩城は17才。年齢から察するに、二人は完全なアイドル候補生だったわけである。アイドルが、しかもデビュー曲で「ズベ公」を歌う。これは当時としてもかなり冒険的なことだったと思う。しかも、二人とも決してキワモノではなく、歌唱力にも抜群のものをもっていた。
思えば、77~78年といえば、聖子、明菜はまだなく、山口百恵はアイドルを脱し国民的歌手になっていたし、キャンディーズは衝撃の解散宣言、唯一気を吐いていたピンクレディーもお子様路線へと向かい始め、アイドル戦線は混とんとしていた。そこに咲いた二輪のあだ花が山川と岩城だったと言っても差し支えなかろう。

山川ユキ、元祖新宿系

♪ダダッダダッダダダダダーと、スキャットともシャウトともつかぬ弾丸ボイスに心臓をハチの巣にされたほどのショックを憶えた。それが僕の初『新宿ダダ』体験である。ダダといっても、むろんマルセル・デュシャンも三面怪人も関係ないらしい(笑)。映画『黄金の腕』のテーマを思わせるイントロのブラスは、思わず指を鳴らしたくなるくらいにカッコイイ。要するに街の音、ストリートの音なのである。
♪新宿生まれの新宿育ち まかせておきなよ 世間のことは~
 このやさぐれ感がたまらない。ズベ公=盛り場の図式どおり、タイトルも「新宿」。歌詞にも「歌舞伎町通り」が出てくる。まさに彼女こそ元祖新宿系。
♪人生なんぞは悲しいもんだね わかっているのは死ぬことだけだよ
 と、いかにも「わかってる」ふうな世をすねた態度が、むしろ可愛くもある。
♪男の子なんてまっぴらごめんさ と突っ張りながら、♪スロットマシンが友達なさ とさらりと流す。スロットマシンというのが、またズベ公に似合う舞台装置である。
 1959年生まれというから、今年で63才。石坂まさを歌謡学院を卒業し、天馬ルミ子、中野知子とともに「ミノルフォン三人娘」として売り出されるのだが、思えば、この時点で彼女のB級ロードは始まっていたのかもしれない。
 YouTubeで『東京ダダ』を歌う山川ユキの動画が見られる。東京12チャンネル(現・テレビ東京)の深夜番組『独占!おとなの時間』のエンディングのもので、当時も今も動いている山川ユキというものをこれしか知らない。磁気テープから落としたため画質はあまりよくないが、貴重な動画といっていいだろう。パンチのある歌声、キレのあるボディアクション(左手で空中に投げたマイクを右手でキャッチ!)もさることながら、彼女、実にプロポーションがいいのである。まずミニスカートから伸びた長い脚。ウエストも細い、い。色白の童顔からこぼれる八重歯が崩れた愛らしさをかもしている。何度もいうが、歌も抜群に上手い。路線さえ間違えなければ、もっと売れただろうにと思う。やはりアイドルに「ズベ公」は酷というものか。

安さ爆発カメラのさくらや

 山川ユキは計4枚のシングルをリリースしているが。そのどれもが、一度聴いたら耳の底に10年は残る怪作、傑作ぞろいである。
シングル第2弾は、ホンキートンクなピアノの先導が泣かせるブルースロック・ナンバー『真夜中ロック』(77年)。♪雨が降ったら新宿 風が吹いたら吉祥寺 と前作の匂いを引きずりながら、ここでは陽気なロックンロール・パーティを展開している。
そして、第3弾の『ウラトビサスケ’78』(78年)は、あのかまやつひろしの作詞作曲で、当時流行っていたソウル・ディスコ調のナンセンスソングだ。早口で意味不明な歌詞をまくし立てる歌唱は、どこかラップ的でもある。で、メロディはよく聞くと、ビー・ジーズの大ヒット曲『ステイン・アライブ』のパ〇リだったりする。ムッシューも自身のアルバムに収録しているが、その際のタイトルは『ウラトビサスケ使えない』。

(山川バージョンがなぜか見つからないので、かまやつバージョンを)

 第4弾『ケリ』(79年)は、初心に帰って(?)の、裏町ズベ公失恋ソング。ブラスとパーカッションが印象的なソウル&ファンク調に仕上がっている。実際、この曲で"ケリ“をつけたのか、山川はひっそりと芸能界を引退。その後の消息がまったく知れないのは、B~C級アイドルのさだめとしても、ヒットとは無縁ながら強烈なインパクトを残して去っていった。記録ではなく記憶に残るアイドル、などというとホメ過ぎか。
しかし、その後も意外なところで、彼女の歌声に出会うのである。新宿東口を降りると勝手に耳に飛び込んでくる、どこか宗教じみたメロディと大音量の声
♪安いよ、安いよ、断然安い、安い衝撃グっとくる、あ~~あ、センセイショ~ン
ご存じ、カメラのさくらやのCMソング。うなりと溜めの、ちょっと下世話な歌い方はどう聞いても山川ユキその人である。少なくとも、2000年の初頭くらいまでは、新宿に行けば、彼女の歌声を聴くことができた。
そのさくらやも今はない(2010年に廃業)。文字通り、「新宿」に殉じた歌手人生だったといえるだろう。

下町ベイビー

岩城徳栄は『スター誕生』第19回グランドチャンピオンという栄誉をひっさげてデビュー。アイドルにしてはゴツい字面の名前だが、これは本名で、引退までこれで通している。もっとも、後述するピーコの愛称の方が有名かもしれない。
さて『ダウン・タウン・ベイビー』だけど、ハンチングを被り、白シャツ、ヒョウ柄タイで不適に笑うジャケットが、いかにも”それもの“でいい。
♪この町に来たら どんな奴だって 挨拶においでよ わたしのところへ
 キタキタキター。いきなり、「仁義を切りに来な」、と歌っているのである。しかもその歌い方もドスが効いていて、まさに、ザ・ズベ公という感じである。
♪美味い珈琲と花で 評判の下町の店に いつもいるわ
 ここで、タイトルの由来ともなった「下町」が出てくる。具体的な町の名前が明らかにされていないが、ここでいう「下町」とは、どこいらあたりをイメージすればいいのだろう。実は東京下町の概念は意外と広いのである。本来は、芝大門あたりを指して下町といったらしい。今や下町の代名詞となった葛飾柴又は、徳川時代は下総国葛飾軍柴又村、江戸ですらなかったのである。岩城のイメージからして、浅草(エンコ)でも上野(ノガミ)でもなく、おそらくは赤羽とか北千住、錦糸町あたりとみる。あるいは、岩城が通っていたS学園高校(当時は結構ワルだった)がある大井町か。岩城の巻き舌歌唱は、いわゆる江戸弁のそれとも違うのだ。それはともかく、山川ユキの新宿とは、山手線の内と外できっちり住み分けができているわけである。
♪この町で起こる どんな出来事も 風より早く伝わる
♪青い空高く 響く口笛は 仲間集める合図なの 
いかにも町の「顔」なのだ。『新宿ダダ』には登場しなかったズベ公仲間の存在がここでは歌われている。同じズベ公ソングでも微妙に世界観が違うのだろう。

ピー子の大ブレイク

『ダウン・タウン・ベイビー』は、チャートにカスリもせず脱落。シングル第2弾は打って変わって、アップビートのド演歌調の失恋ソング『あいつ』(78年)。楽曲としては凡作だが、彼女の声質にはこちらの方が合っていたかもしれない。第3弾がファンク・ディスコ・ナンバーの『ダイナマイト』(78年)。イントロが大野克夫作曲の『太陽にほえろ』にそっくりなのは笑ってしまうが、サビの「ダイナマーイッ!」のシャウトは超がつくほどカッコイイ。
♪ムシャクシャしてたまらない イライラしてきたよ こんな夜はやるか Don Donひとあばれ
 という歌詞にズベ公回帰が見られるか。山川と同じく、ヒットを狙っての試行錯誤というか、焦りとも伺えるが、ヒットこそないものの、山川に比べ媒体への露出は多かったのは、『スタ誕』出身者という看板のおかげか、はたまた事務所のプッシュか。ちなみに岩城は山田太郎が社長を務める新栄プロに所属していた。朝刊太郎は、事務所の所属タレントだった紅谷おかめと結婚しているが、まあ、そんな話はどうでもいい(笑)。
 そんな岩城徳栄がブレイクしたのは、ワイドショーでの天然ボケ・キャラが開花してのこと。とりわけ、『笑アップ歌謡大作戦』では、司会の山城新伍やレッツゴーじゅんにその頓珍漢ぶりをいじりまくられ、茶の間を笑いの渦に巻き込んだ。岩城徳栄のもうひとつの顔(というか、こちらが本性?)、「ピー子」の誕生である。ちなみに「ピー子」は彼女の子供時代からのあだ名なのだそうだ。
 最盛期にはレギュラーを数本もち、松田聖子と映画で共演、ノーシンのCMにも起用される(「頭痛が痛いの~」のおバカなセリフが有名)など、メジャーでの活躍という点では、岩城徳栄は山川ユキに大きく水をあけていたといっても過言ではないだろ。
歌の方も健在で、ピー子キャラになってからも、シングルを2枚リリースしている。そのうち、亜蘭知子作詞作曲の『愚痴ともだち』(81年)はなんと本邦初のレゲエ歌謡である。

『愚痴ともだち』もYouTubeから消えてしまったいる。名曲だったのにね。代わりにこの画像を。レツゴ―じゅんちゃんとは名コンビだったな。

 この人も山川同様、本当に歌唱力はハンパないし歌詞の読解が優れていたと思う。たとえば、中島みゆきなんかに楽曲を提供してもらっていたら、また違った展開があったかもしれない。
そして人気絶頂の84年、レギュラー出演していた『街角テレビ11・00』の本番中に、突如、「明日、大きな地震があります。本当です!逃げてください」と発言し、現場を騒然とさせ、番組はそのままCMに突入した。この「放送事故」が原因で、岩城はこの日を最後に、同番組を降板した。その後、別の番組で、結婚・引退を発表、出演者から花束を受けるが、寿引退は表向きの理由で、先の地震発言を原因に事務所から引導を渡されたというのがもっぱっらの噂である。

70年代を境に、ズベ公は町からも歌謡曲の世界からも姿を消していった。そして80年代に入り、ズベ公に変わって、中森明菜を筆頭とするツッパリが台頭するのである。

初出・「昭和39年の俺たち」(一水社)2022年11月号

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