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半島コスメ事始め~100年前に始まった綺麗の道

双子美女マーク

 クラブ化粧品の双子美女マークは、高畠華宵デザインの中将湯お姫様マークと並んで、大正ロマンの香り漂う二大名意匠であると思う。大正ロマンとはいったが、クラブ化粧品(クラブコスメティックス)の前身である神戸の中山太陽堂が、双子マークをつけた「クラブ洗粉」を大ヒットさせるのが1906年(明治39年)、津村順天堂(現ツムラ)のお姫様マークのデビューが1911年(明治44年)だから、ともに明治生まれで、双子の方が若干お姉さんということになる。
 肝心の双子マークをデザインしたのは誰なのか、クラブコスメティック社のHPの「沿革」にもそれにまつわる記述は一切なく不明であるが、基本となるイメージは、創業者である中山太一によるものだろう。「クラブの化粧品を使うと、二人ぶん美人になれます」といったところだろうか。

クラブ化粧品のシンボル、双子美女マーク。何度かのマイナーチェンジの末、現在にも受け継げられている。「湯屋(銭湯)の前を通るとクラブ洗粉の匂いがする」といわれた。

 中山太一はアイディアマンであり、自身が一級の宣伝マンでもあった。同業他社に先駆けて1910年(明治43ねん)、社内に広告部を設置。「クラブ少女音楽隊」という街宣ブラスバンドを結成し、鳴り物入りで街中を練り歩かせたり、飛行機のボディに商品名を書いて宣伝ビラを散布したり、同じく商標を描いた飛行船を飛ばすなど、ユニークな宣伝活動を展開している。また、1922年(大正11年)には劇作家の小山内薫を顧問に迎え入れ、自社PR誌のための出版社プラトン社を設立、同社から発行した『女性』、『苦楽』はPR誌の域を超えた文芸総合誌として阪神地区を中心に多くの女性の支持を得た。編集員として直木三十五や川口松太郎が参加している他、泉鏡花、谷崎潤一郎、与謝野晶子ら、そうそうたる文人が寄稿しているというのも驚きだ。化粧品メーカーがPR誌を設けるという手法は、その後、資生堂の『花椿』(「資生堂月報」として1924年に創刊)などに受け継がれている。

『苦楽』。デザインも実に大正ロマンが香る。

「商品に偽りなきものは最後の勝利者なり」を信条とした太一をひとことでいえば、実直の人。クラブ化粧品は、併合とときをほぼ同じくして半島に進出するが、白いチョゴリ姿の女性をシンプルに描いた一連の新聞広告シリーズにも、彼のその実直な性格が表れているように思えてならない。優美ではあるが過美には走らず、なによりも押しつけであってはならない、朝鮮女性には朝鮮女性に合った美容法があるはずだ、という信念である。

クラブクリーム。「皇后宮職御用品」。鉄道の路面図に模して化粧の順序を紹介するという小技も効いている。(「東亜日報」1928年11月4日)
クラブ白粉。「純無鉛」。それまでの白粉には鉛が含有されていたが、中山太一は天然植物性にこだわった。「舶来品を凌駕する最良国産品」。(「東亜日報」1928年11月16日)
クラブ石鹸。当時をしのばせる独特の書体が今みると新鮮。「日本人(この場合、半島人も含む)にあった成分」とある。(「東亜日報」1928年11月13日)

 当初、クラブ石鹸やクラブクリームの愛用者は妓生だったが、1920年代になって「新女性」のムーブメントとともに、新式の化粧法が浸透していくにつれ、日本製の化粧品が市場を席捲し始めたという。

クラブ石鹸。「石鹸界の第一品」。大正末期から昭和にかけて、女性美の解放の風潮を受けて、広告には頻繁に裸婦が登場した。(「東亜日報」1930年4月?日)
クラブクリーム。ハングルに和服美女、不思議と違和感がない。「目下大懸賞募集中」。はて、どんなものが当たったのだろう? (「東亜日報」1931年7月?日)

東のレート、西のクラブ

 このころ、クラブ化粧品と並んで、朝鮮女性の間で人気を二分していたのは、平尾聚泉(しゅうせん)のレート化粧料である。平尾は「ダイヤモンド歯磨き」のヒットで知られる「平尾賛平商会」の二代目で、後年は父の名を継いで二代目・平尾賛平を名乗ることが多かった(聚泉は、古銭コレクターとしての号)。歌手・作曲家の平尾昌晃は聚泉の孫にあたる。
 1918年(大正7年)、白粉とクリームをセットにした「レートメリー」を発売、一世を風靡する。以後、同社の化粧品シリーズは「レート化粧料」(LAIT TOILLETTE)として知られ、「東のレート、西のクラブ」と並び称されるようになった。LAITはミルクを意味するフランス語だが、発音は「レ」、カフェ・オ・レの「レ」である。どういう理由で英語風読みの「レート」になってしまったかはさだかではない。

クラブ化粧品を意識してか、レートの広告にもチョゴリ姿の女性が登場。平尾商会は、朝鮮や台湾では試供品を配るキャンペーンで需要を喚起した。(「東亜日報」1928年11月9日)

  平尾もかなり広告に力を入れた人で、新聞広告や繁華街の大型広告塔などに高度な技術と品質を謳い、デパートなどに進出して人気を博した。併合時代の絵葉書などで、京城の中心街にひときわ目立つ「レートクレーム」の広告塔は、平尾聚泉の面目躍如といったところだろう。クリーム(CREAM)でなく、クレーム(CRÈME)なのは、フランス語に拘った結果なのだろうが、ならなおさら、LAIT=レートが気にかかる。ちなみにTOILETTE(トワレット)は「化粧」。現在も存続するクラブとは違い、レートは戦後解散するが、LAIT TOILETTEの商標からか、便器を作っていた会社と勘違いされることもあったようだ。
そのほか内地ブランドの化粧品では、ホーカー液の堀越嘉太郎商会、オリヂナル香水の藤井肇商会などが、半島女性の寵を争っていた。

開発者・堀越嘉太郎のホ(堀越)とカ(嘉太郎)から命名して「ホーカー液」だって。今でいう美白化粧品の元祖。(「東亜日報」1928年5月8日)
オリヂナル社は口中清涼剤カオール(川端康成『伊豆の踊子』にも登場する)で有名。近年は、ももの花ハンドクリームがロングヒット。(「東亜日報」1924年10月14日)
和装とチョゴリ姿の女性が並んでいるイラストがいい。桃谷順天館は「明色」のブランドで今も健在。「美顔」は同社の商標だそうだ。(「東亜日報」1929年10月10日)

 1930年代に入ると、エレナ化粧品、グリム、ジェットクリームといった朝鮮資本の化粧品も現れたものの、原料供給の制約や家内手工業レベルの技術、物量の問題で、上記内地メーカーを脅かす存在には到底なりえなかった。とりわけ不利にあったのは化粧瓶で、内地メーカー各社がそれぞれ凝ったデザインや製法の瓶で人気を博していたのに対し、半島メーカーは技術的にもコスト的にも瓶にまで趣向を凝らすことはできず、大きな樽に自社クリームを入れて販売員が持ち歩き、量り売りするという販売体制をとらざるを得なかった。それでも商売が成り立っていたということは、いかに女性にとって美が大きな関心時であり、化粧品が必需品であるかを物語っている。

ウテナは花の萼(がく/うてな)のこと。掌(うてな)にも通ずる。女性の美を支えるの意味があるそうである。男性化粧品でも有名。(「東亜日報」1933年6月28日)

引き揚げ者の受難を訴える

 1949年(昭和19年)4月21日付の朝鮮総督府「官報」に、中山太一の名前を見つけた。彼は、酒井武雄(この人物については不明)と連名で「朝鮮藥粧有限會社」なる会社を商業登記している。ひょっとしてこれは、クラブ化粧品の本拠地を朝鮮に移すための何らかの布石だったのではないだろうか。すでに戦局は好転するみこみはなく、国防色一辺倒の内地では化粧品業界の死線は見えていた。朝鮮も戦時体制下にはあったが、まだ余裕があった。幸い朝鮮は空襲を受けることなく終戦を迎えている。

中山太一。近畿化粧品工業会名誉会長、日本インドネシア協会理事、日本能率協会副会長を歴任、貴族院議員にも選任された。「東洋の化粧品王」、「化粧品業界の巨星」。

 結局、クラブ化粧品をはじめ内地の企業は、敗戦の日を境に、すべての資産、工場、販売施設を朝鮮に置いて追われるように朝鮮から逃げ帰っている。
 中山太一と朝鮮の関わりはまだ続く。貴族議員だった太一は戦後まもなく開かれた貴族議員本会議で、外地、とりわけ満州、朝鮮の邦人引揚者が置かれている――略奪、強姦、殺害等――筆舌に尽くしがたい受難の現状を複数回にわたって答弁しし、数十万同胞の救済を訴えている。
《北鮮及び滿州其の他の地域で我が民族が言語に絶する虐待、略奪、暴行等によつて忍び難き非人道的取り扱いを受け、悲慘な生活を続けて居ると云ふことが、事実之が果してあつたのでありますかどうか、若しあつたとしたならば、平和上、人道上極めて遺憾なことであり、我々敗戰國民ではありますけれども、誠に割切れない黙過なし得ない問題のやうに考へられるのであります。(中略)正義と平和を旨とする聯合國側は總て其の一環として共同責任を以て之を円満に、深切に解決を速(ルビ※すみや)かにせらるべきものであるやうに私は考へるのであります 。》(1945年12月4日)
「正義と平和を旨とする聯合國側」は多少の皮肉がこめられているのか。本項の主旨とは離れるので、これ以上の引用は避けるが、興味のおありな方は国会会議録検索システムで「中山太一」「引揚げ」「朝鮮」等のキーワードで検索してみていただきたい。実直の人・中山太一の同胞に対する思いが伝わってくるはずである。

おまけ

純半島製品も負けてはいない。朝鮮白粉販売の老舗・朴家粉(パクガフン)化粧品。「工学博士三山喜三郎氏審査賞状」。なぜに、工学博士?(「東亜日報」1925年4月7日)
これも純半島製品。朴家が鉛含有問題で敬遠されるようになったことを受けてか、無鉛を謳った「明月白粉」。(「東亜日報」1926年1月?日)

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