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目からビーム!49 国産初のアニメーターは宮古島出身

「早いもので今年ももう残りわずか」という常套句を使う季節になってしまった。
 御代替わりがあったこの年のNHK朝ドラのヒロインはアニメーターだった。今まで無数のテレビアニメがブラウン管(この言葉も死語だ)に登場し消えていったが、アニメ業界の話自体がテレビドラマの題材として取り上げられるのはおそらく初めてではないか。かつては漫画映画と一般に呼ばれ、子供向けと軽視されていたアニメも、今では日本が誇る文化コンテンツのひとつとなった。ANIMEはもはや世界共通語である。
 日本のアニメーションも実は100年の歴史がある。日本最初のアニメ映画『凸坊新画帖・名案の失敗』が公開されたのが1917年(大正6年)。この作品は、当時の人気風刺漫画家・下川凹天が映画会社・天活の依頼を受け、試行錯誤の上、一人で完成させている。当時はまだ欧米でもセルは一般的でなく、凹天は電球を仕込んだ自作のトレース台の上に原画を置き、その上に薄紙を置いて、少しずつキャラクターの動きを描いていったという。
 凹天は、本名は下川貞矩。沖縄宮古島の生まれである。小学校の校長だった父の死をきっかけに6歳で母の実家のある鹿児島に転居、のちに父方の叔父を頼って上京し、小学校卒業と同時に漫画家・北澤楽天の内弟子となり、凹天の号をもらう。「凹天」は、主に漫画の仕事では「へこてん」と読ませ、アニメーターとしては「おうてん」と名乗っていたらしいが定かではない。ただし、両方の読み方を使い分けていたのは確かなようだ。
 ついでにいえば、「凸坊新画帖」とは、当時、輸入のアニメ映画をそう称して公開していたことにならったもので、アニメ、カトゥーンといった程度の意味合いである。日本で最初の「凸」坊新画帖を「凹」天が作ったというのも話としては面白い。
 凹天がアニメとかかわりは約1年半と短い。トレース台の強い光源が彼の大切な網膜を痛めてしまったのである。彼は1917年に5本のアニメ短編を制作したが、いずれもフィルムが現存しておらず、まさに伝説のアニメーターになってしまった。しかし、彼の名はその出身地・宮古島とともに日本、いや世界アニメ史に永遠に刻まれることだろう。

 

下川凹天の漫画『芋川椋三』。雑誌「東京パック」(大正4年)に掲載。

(初出)八重山日報
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(追記)
ウィキによれば、凹天は師匠・北澤楽天から3度破門されているという。最初の破門は、入門間もなくのもので、師の勧めで旧制・青山学院に進みながら、学業に身を入れず落第してしまったことによる。あとの2回も、素行上の理由によるものらしい。
 写真を見ると、若き日の凹天はいかにもきかん坊な面構えをしている。一方、師匠の楽天も神田生まれの江戸っ子、頑固さではひけをとるまい。
「おめえみたいなすっとこどっこいは辞めちまえ!」
「ああ、辞めさせてもらいますよ」
 売り言葉に買い言葉という感じだったのだろうか。
 それでも、凹天がころあいを見て詫びを入れると、楽天はそのつど喜んで迎え入れたというのだから、二人の間の破門劇もどこか父子喧嘩のようでほのぼのとしている。楽天も可愛い一番弟子だからこそ、自分のペンネームの天の字を継がせ、高い学費を出して私学に学ばせたのだろう。
 漫画家の弟子が、アシスタントでなく徒弟だった時代の話である。

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