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目からビーム!153 個人主義と女風呂

 三重県桑名市の温泉施設で、女性用の風呂に侵入した疑いで43歳の男が逮捕された。調べに対し男は、「私は、心は女なのに、なぜ女子風呂に入ったらいけないのか全く理解できません」と答えたという。
 先のLGBT理解増進法施行以来、誰もが予想していた事件だけに怒りを通り越して乾いた笑いすらこみあげてきたものだ。観光施設を多く抱える沖縄も人事ではなかろう。
 これに対してSNS上に「本当に 『心が女』なら、男性器をつけた人間が女風呂に入ってきたときの女性の恐怖や嫌悪感を想像できるはずだ」という旨の書き込みを複数見たが、これ以上ない鋭い”返し”であると、思わず膝を叩いてしまった。
 この温泉施設の受付係員は、件の男を見て女性用ロッカーのキーを渡していたというから、女装もそれなりに完璧だったのだろう。しかし、いかに女装が上手くても、男は男である。こういうケースを野放しにしておくと、いずれ自認女性が女装であるとは限らないという理屈をこねる輩も出てくる。背広にネクタイのおじさんが、「私は、心は女性で、背広はあくまで通勤着だ」と主張し堂々、女性専用車両に乗り込んでくるかもしれない。
 体と心の性のギャップに苦しむ人がいるのは想像できなくもないが、そんな人がそうそういるとも思えない。本当に悩みぬいた人なら、どこかで決断を下すだろう。そのひとつが、手術によって肉体も異性になることである。生まれた性を捨てるとは、それくらいの覚悟がいるものである。百歩譲って「肉体の性」も「心の性」も対等な価値があるという論ならまだ理解できる。しかし、「心の性」が「肉体の性」よりも上位にあるべきかのような昨今のLGBT論者の主張には与することはできない。
 戦後の個人主義は、イエ(家)からの個人の解放を謳った。われわれは職業も配偶者もイエの干渉を離れて個人の自由で選べる。それは確かに素晴らしいことだ。しかし、個人主義も行き過ぎると秩序を破壊する。職業を選ぶように性を選べるという考え方は個人主義のアナーキズムだ。自分を男に、あるいは女に生んでくれた両親に対する冒とくではないか。人間、生まれた限り自分では抗えない運命があると考えるほうが健全だ。
「肉体の性」より「心の性」が大事? 人間の心ほどうつろいやすものもないだろうに。

(初出)八重山日報

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