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長距離ランナーの孤独~孫基禎とは何か

併合時代だからこそ、彼は走ることを覚え、その才能を開花させた。そして併合時代だからこそ彼は走ることを辞めた。

孫基禎伝説とは

  孫基禎(そん・きてい/ソン・ギジョン)を語ろうとするとき、さまざまな枕詞が浮かんでくる。「悲劇のランナー」「祖国喪失の象徴」「走る独立運動家」……。いずれにしても日本人の自虐心を大いに刺激してくれるフレーズばかりだ。むろん、筆者もその日本人のひとりなのである。
 孫基禎、日韓併合から2年目の1912年(明治45年)、中朝国境の鴨緑江のほとりに、貧しい商人の子として生まれている。鴨緑江は冬ともなれば凍結し、子供たちにとっては格好のスケート場となるが、スケート靴を買ってもらえなかった彼は、代わりに走ることを覚えた。小学校高学年には独自のトレーニング法を開発し、学校の行き帰り、放課後、ひまをみつけては走り続けていたという。家の事情で進学を断念した孫だったが、陸上競技の名門・養生高等学校からスカウトされ、19歳で同校に入学、ここで長距離ランナーとしての才能をさらに開花させた。1935年(昭和10年)の明治神宮体育大会のマラソンで、当時の世界最高記録2時間26分42秒を樹立し、翌1936年(昭和11年)のベルリン・オリンピック日本代表の切符を手にしている。このベルリン五輪でも当時のオリンピック記録となる2時間29分19秒2でゴールを決め、みごと優勝を果たしたのだった。
 彼の金メダル獲得は、内地はもとより、彼の故郷である朝鮮に熱烈な興奮を呼び起こし、日本統治下にあって屈折した思いを抱えていた朝鮮の人々の民族心に火をつけることになった。最初に反応したのは、メディアだった。
大会直後に朝鮮の新聞「東亜日報」は、表彰台に立つ孫のユニフォームの日の丸を白く塗りつぶした写真を掲載したのである。これが独立運動組織の地下活動に神経をとがらせてた朝鮮総督府警務局の逆鱗に触れることになるのだ。同記事の担当記者が逮捕され、新聞は発行停止処分が下されている。世にいう「東亜日報日の丸事件」だ。

実際の写真(右)と「東亜日報」(1936年8月25日)に掲載された日の丸を塗りつぶした孫基禎の表彰台の写真。手にしているのは、ヒトラー総統か贈られた優勝記念の月桂樹の苗。孫の母校・養高校(現在は孫に植樹され、80年経った今、大木に育っている。
「朝鮮男児意気衝天!」「孫君一着南君三着」。南君とあるのは南昇竜のこと。この大会のマラソン協議では、金、銅をともに半島出身の日本選手が取った。記事の活字も心なしか躍っている。(「朝鮮日報」号外1936年8月6日)
孫基禎優勝を祝って、内地在住の親日朝鮮人グループ
相愛会による提灯行列を伝える同盟通信の記事。

 また、この事件をきっかけに孫自身も要注意人物として特高警察の監視対象にされてしまうのである。孫は民族意識が強い青年として知られ、ベルリンでは外国人記者にサインを乞われると「KOREA」と添えたり、表彰に際しても「自分の国歌がなぜ君が代なのか」などと発言し、かねてより当局を苛立たせていた。それ以前にも、総督府や日本政府に対して批判的な言動を隠すことはなかった。彼のそんな態度を心配した同胞から、レースに出してもらえなくなるぞと忠告を受けることもあったが、孫は「いいですよ。私が走らなかったら、困るのはあの人たち(日本)ですから」と言ってのけたという逸話も残っている。
 
「日本のために」はタブーなのか
 
 結局、この一連の騒動が重なり、孫はしだいに走ることに意欲を失っていく。翌年、明治大学に進学するが、陸上部に所属することはなかった。金メダルの栄光と引き換えに、二度と彼はグランドに立つことはなかったのである。
 以上のような事実からも、孫基禎を「悲劇のランナー」と呼ぶのに一点の躊躇もない。多くの半島人が彼を民族の声なき声の代弁者と思う気持ちもわかる。
 では、当時の日本人は孫基禎をどのように見ていたのであろうか。さすがに、栄えある金メダリストに背信者、裏切り者の烙印を押すわけにはいかないものの、同情の意味も込めて、どこか腫れものにさわるような扱い、できれば彼の話題は避けたい、そんな空気があったのではないか。筆者は長い間そう思っていた。そんな折り、偶然、こんな記事を見つけた。『婦人公論』1936年10月号の、「邦坊女人問答」という対談シリーズである。ゲストは、半島の舞姫こと舞踏家の崔承喜(さい・しょうき/チェ・スンヒ)。ホスト役は漫画家の和田邦坊である。その中に孫基禎の話題が出てくる。

「この脚なら走っても早いだろうな」
「早いわよ、孫選手だってどうです」
 と威張った。なるほど、半島が生んだ、マラソンの超人、孫基禎選手は彼女の仲良しであった。グルネワルトの杜に二十四年待望の大日章旗を揚げて、大いに日本のために気を吐いた孫選手、こうなると彼女の鼻息は荒い。
「内地の方が勝つより私何倍か嬉しいですわ。朝鮮生まれの人が全日本の爲(た)めに働いたなんて、こんな愉快なことはありません」
「郷土愛だな」


 腫れものどころか、邦坊は少しも悪びれることもなく、孫基禎を「日本のために大いに気を吐いて」「待望の大日章旗を揚げて」くれたと称賛し、崔承喜も「内地の方が勝つより私何倍か嬉しいですわ」と同胞愛を隠そうともしない。むろん、二人とも東亜日報の日の丸事件はすでに承知のはずである。このあと、次期開催予定の東京オリンピック(1940年に予定されていた、いわゆる“幻の東京五輪”)の話題となり、崔が「私も走ろうかな」といい、邦坊は「なんなら、孫君と走ればいい」と返している。
 おそらく、一般の日本人の反応はあらかたこんなものだったのだろう。「日本代表」として大会を制した孫を素直に讃え、半島人がわがごとのように孫の活躍を喜ぶ姿にも理解をしめす。思えば、そう不自然なことではない。

孫基禎と崔承喜。そのバックストーリーゆえか、この時代の孫基禎の写真はどれも表情が硬く、このようにリラックスした笑顔は大変珍しい。

 もちろん、漫画家である邦坊が、面白おかしくインタビューを脚色しているのはわかる。孫の優勝をラジオで知った崔は、思わず手にしていた卵を握りつぶした、とインタビューで語っているが、人間の、まして女性の手で鶏卵を握りつぶすことは不可能だろう。崔の「朝鮮生まれの人が全日本の爲めに働いたなんて、こんな愉快なことはありません」も、「朝鮮出身者が日本選手の成し得なかった優勝を勝ち取ったことが誇らしい」と意訳可能だし、こちらの方が真意に近いかもしれない。ちなみに和田邦坊は、百円札に火をつけて「どうだ明るくなっただろ」という成金の風刺漫画の作者といえば、 ハハンと思われる読者も多いかもしれない。
 これも余談だが、実は孫基禎、自ら「脚も速ければ舌の回りも速い」というほどに口の達者な人だったらしい。総督府の神経を逆なでした一連の彼の発言も、彼なりの毒舌、あるいは同胞半島人に対するリップ・サービスの類が含まれていたのかどうか、今となっては知るすべもない。
 戦後、孫基禎は韓国の陸上競技会の重鎮として後進の指導にあたり、1948(昭和23年)のロンドン五輪、1952年(昭和27年)のヘルシンキ五輪には韓国チームの総監督として選手を率いている。その際、日本の陸上関係者とは日本語で旧交を温めたという。

 1988年(昭和63年)のソウル五輪開会式、76歳の聖火ランナーとして登場した孫基禎は、衛星中継を通して日本のお茶の間にも健在ぶりをアピールしている。
 2002年(平成14年)、ソウルの病院で孫は90歳の大往生をとげた。
 

これを履いて孫は金メダルを取った。孫基禎記念館に展示されている当時のシューズ。韓国人が嘲笑するチョッパリ(足袋)型である。
 「マラソン王」(右)。鉄兜(?)を被ったランナーを子供たちが追いかけている。孫、南両選手のメダルは、半島の子供たちの間にランニングブームを巻き起こした。豊国製菓。左は森永キャラメル。(「朝鮮日報」1936年8月24日)

「オリンピック戦士・孫南両君の世界制覇を祈りましょう」「朝鮮が生んだマラソン王を見習って森永キャラメルで大きく強くなろう」。孫基禎の金メダル獲得は大きな経済効果を生んだようだ。(「東亜日報」1936年8月19日)


「孫基禎・南昇龍両選手優勝祝賀」。活命水(ファルミョンス)は120年の歴史をもち現在も売られている韓国オリジナルの消化薬。(「朝鮮日報」1936年8月11日)
ベルリン五輪の記録映画にしてナチスドイツの宣伝映画『民族の祭典』(1938年)の監督レニ・リューフェンシュタール女史と再会。1956年。

映画『民族の祭典』より。

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