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反日的民族論の終焉~北海道庁爆破事件から見えるウポポイのあやうさ

フランスのテロ事件に感じたこと

 この原稿を取り掛かろうとPCに向かおうとしたところ、飛び込んできたのが、イスラム過激派による仏シャルリー・エブド社の襲撃事件とその後の一連の騒動である。現在、パリの友人とも連絡が取れない状況なので、個人的にも大変憂慮している。この騒動のおかげで脱稿が3日は遅れた(それは言い訳か)。
 圧巻だったのは、パリ東部のユダヤ系スーパーマーケット襲撃に対し、当局が特殊部隊を投入し、武器の携帯の有無を問わず問答無用で犯人を射殺したこと。金目当ての強盗犯ではなく、相手はテロリストだ。手に銃をもっていなくても、体に自爆用のダイナマイトを巻き付けている可能性もある。当然こうなるわけだ。
 このフランス式のやり方に、人一倍驚愕したのは、日ごろ「西欧州でまっ先に死刑を廃止したフランスは、さすが、人権、人道、博愛の国」などと知たり顔でいる日本のお花畑さんたちであろう。
 警官に身の危険までさらさせて犯人を無傷で逮捕し、裁判にかけたのち(死刑のない)刑務所に送る――そんな七面倒なことはせず、現場処理で片をつけるというわけである。とりわけテロリストに対しては一切の容赦は不要、いい悪いは別として、それがフランスの、いや、世界のスタンダードなのだ。

 翻って日本を見てみよう。1977年(昭和52年》9月のダッカ日航機ハイジャック事件では、時の福田赳夫首相みずから犯人に屈し、「人命は地球より重い」などと国際社会では通じない、おまじまいを唱え、600万ドルの現金と獄中にある凶悪犯を手土産にテロリストを海外に解き放って、世界から非難を浴びた。日本の極左テロリストのやり方を見て戦略に組み入れた、世界の過激派組織、国際犯罪団は無数にあるだろう。イスラム過激派もしかりである。それを受け、結果、各国のテロリスト対応も苛烈なものへとなっていったのである。日本政府のテロへの屈服は、結果として、良民、テロリスト、双方の生命を軽んじることになったのだ。
 そもそも、人道という概念も国家や思想的立場が変われば、また微妙に変わってくる。確かにフランスは81年に死刑制度を廃止した。しかし、その日まで行われていたかの国の死刑方法はフランス革命以来の伝統であるギロチン刑だ。フランス人によれば、ギロチンは「受刑者へあたえる苦痛がもっとも少なく、瞬時に死にいたらしめる人道的な処刑方法」だという。彼らによれば、日本式の絞首刑やアメリカの一部の州で現在も行われている電気椅子刑の方が何倍も残酷で野蛮なのだそうだ。
「人命は地球より重い」が、いかに空疎な言葉かわかるだろう。

テロへの屈服は新たなテロを生む

 70年代に多発した過激派によるハイジャック事件に関しては、いずれ稿を改め詳しく触れるが、このダッカ事件を引き起こした日本赤軍のメンバーに佐々木規夫がいる。すでにお伝えしたように、佐々木は東アジア反日武装戦線の企業爆破テロ部隊"狼"の元メンバーである。 
 75年(昭和50年)5月、三菱重工ビル爆破事件の実行犯として逮捕されるが、同年8月、クアラルンプール事件における超法規的処置によって釈放されたとう経緯がある。クアラルンプール事件とは、日本赤軍が在マレーシアアメリカスウェーデン大使館を占拠、職員ら約50名を人質として、日本国内の刑務所に収監中の過激派分子の釈放を要求したテロ事件だ。このとき、テロリストの要求に応じたのは三木武夫内閣だった。
 つまり、日本赤軍のテロ事件によって釈放された佐々木が、さらなる仲間の釈放をもとめて起こしたのがダッカ事件なのである。ちなみに、クアラルンプール事件の実行犯として逮捕された奥平純三はダッカ事件で釈放されている。佐々木規夫にしてみれば、自分をシャバに出してくれた奥平に対する恩返しということになるかもしれない。
 奥平は1987年(昭和62年)、ヴェネチア・サミット開催中のイタリアで、米大使館、英大使館にロケット弾を撃ち込むなどのテロを主導しており、佐々木規夫ともども現在国際指名手配中だ。
 テロへの屈服が新たなテロを呼ぶ。日本はこれを教訓としなければいけないだろう。

反日とアジアと新左翼は結び付く

 さて、実はここからが本題なのだ。今回のテーマは「東アジア反日武装戦線の遺伝子」である。
 これは前々回の連載でも語ったとも思うが、東アジア反日武装戦線という名称は実に鮮烈であった。その名を額面通り解釈すれば、アジアに連帯し反日のための武装闘争を行う黒色主義(アナーキスト)のグループとなる。それまで共産革命を掲げる新左翼グループはいたが、「反日」を目的と謳った組織は彼らが初めてであった。
 では彼らはなぜ日本人であるのに反日なのか。なぜアジアなのか。
 答えはシンプルだ。「戦前、日本が侵略戦争を起こしアジアの国々にひどいことをしたから」という論理なのである。
 そのことは同戦線の企業爆破実行部隊・さそりのメンバーだった宇賀神寿一(82年逮捕・03年出所)の獄中メッセージ「さそりの僕」にも明確に記されている。
《“さそり”の武装闘争は、鹿島建設をターゲットとした「花岡作戦」によって開始されました。戦中、強制連行されてきた中国人朝鮮人労務者が鹿島建設によって虐殺酷使されたことに対してオトシマエをつけ、日帝本国人としての責任を果たすこと、それとともに山谷・釜ヶ崎の下層労働者の闘いに連帯する意味で、寄せ場越冬闘争に時期を合わせて闘われていった闘いでした。
 更に続く問組への攻撃は、「キソダニーテメンゴール作戦」という作戦名が示すように、戦前戦中、強制連行されてきた中国人朝鮮人労務者が木曽谷事業所で虐殺酷使されたことに対してオトシマエをつけることと、74ー75年当時、間組がマレーシア独裁政権と結託し、更なる収奪と搾取をはかり、かつマラヤ共産党の根拠地を潰すために強行していたダム建設を中止させ、撤退させるために闘われていったのです。そして、この闘いは、当時マラヤ共産党ゲリラによってすでに行われていたダム建設現場への連続した武装攻撃に日帝本国内から戦闘呼応した闘いであり、真の国際主義共闘を目指した闘いだったのです。》
 戦前にアジアで労働搾取を行った企業、軍事産業で儲けた企業、戦後、アジア諸国の開発独裁と癒着して儲けている企業にオトシマエとしてテロを仕掛けたのだと主張している。

穏健リベラルにも流れる過激派の血

 宇賀神は高校時代より同和問題や在日問題にコミットするようになり、明治学院大学時代は山谷や釜ヶ崎で労働者と連帯を深めていった。その意味では市民左翼、労働左翼であり、学生運動家にありがちな高踏的観念的な左翼とは一線を画していたといっていい。
 それはさておき、「戦前、日本がアジアにひどいことをした反省から反日になる」というロジックは、上は労組に擬態した過激派セクト残党から下はお花畑市民活動家まで、現在の日本のサヨク勢力の共通分母となっている。慰安婦も、南京大虐殺も、靖国問題も、根源はそこにある。はなはだしくは、アメリカが絶対的な加害者であるはずの広島長崎の原爆投下や東京大空襲さえも、「日本が戦争を始めたせい」として国家や天皇を断罪する材料にしている。
 何度もいうが、この考えは60年代までの左翼には、明確に存在しなかった考え方である。BC戦犯の釈放と名誉回復にもっとも尽力したのが、堤ツルヨをはじめとする日本社会党の議員だったということからもそれがわかる。
 つまり、極論を承知で言及させてもらうならば、現在、日本のリベラルに蔓延している日本アジア侵略論、日本原罪論こそが、まさしく東アジア反日武装戦線の遺伝子そのものだということだ。どんなに柔和な表情で平和の大切さを説こうが、その思想が日本原罪論を基調としている限り、彼(女)の血管の中には、濃度の差こそあれ過激派の血が流れているということになる。
 アメリカの民主党支持層のリベラル派が反米であるわけはない。フランスの極左グループが反フランスであるわけがない。日本の左翼だけが、ほぼ反日とイコールで結びついているという不思議な構図に関しては、もっと考察されてしかるべきだろう。

「アジア」という概念

 さて、彼らが語る「アジア」という概念には、アイヌや沖縄も含まれるようである。彼らのいうアジアとは、日本を除くアジア諸国のことであるから、当然、北海道、沖縄は日本でないという前提が共有されなければならない。日本が蝦夷地や琉球を侵略し、彼らの土地や生命を奪い、隷属あるいは同化させたというのが、彼らの公式見解のようだ。
 東アジア反日武装戦線に強い思想的影響を与えたのが元日本革命的共産主義者同盟(第四インターナショナル日本支部)委員長・太田竜だといわれいている。
 太田竜はペンネーム(転向後は龍の字を用いた)で本名は栗原登一。1930年(昭和5年)、樺太生まれの太田はマルクス主義に傾倒、その後、幾度かの思想的漂流を経てアイヌ革命論に行きつき、そのオピニオン・リーダーとなる。アイヌ革命論というのは、窮民革命論の亜種で、ここでいう窮民とは、アイヌ、沖縄人、在日、日雇い労働者といった、通常の労働者(彼らはすでに資本主義のシステムに組み込まれ闘争のエネルギーを無くしていると太田は考えていた)よりもさらに虐げられた者たちの総称だといい、彼らと連携して革命を成し遂げようというのが思想の根幹で、アイヌ革命論はその主体をアイヌにおいたものである。
 なお、この時期も太田の思想的同志には、竹中労、平岡正明がいる。竹中は芸能からヤクザまで幅広い守備範囲をもつ骨太の元祖ルポライター(竹中の造語)、平岡も『山口百恵は菩薩である』などの著作で知られる多才な評論家・作家で、一口で左翼(あるいはサヨク)と論じることのできないユニークな論客であった。後述する太田竜の転向後の活動についてもそれはいえる。

竹中労。梶山季之が元祖トップ屋なら彼は元祖ルポライター。共産党員だった時期もあるようだが、やはり彼に組織は似合わない。
平岡正明。「~は菩薩である」は一時流行語になった。僕(但馬)は言う、「崔承喜は弥勒である」と。

 彼ら3人は解放戦線のメンバーではなかったが、前出の佐々木規夫や大地の牙リーダーだった斎藤和(自決)と個人的なつながりがあった。そして佐々木、斎藤が解放戦線に加わるのは朝鮮問題、それにアイヌ問題を通じてのオルグだったという。
「アジア」を看板にした日本原罪論がいかに危険性をはらんだカルト思想であるかはこれで、ご理解いただけよう。

大森勝久の反日亡国論

 三菱重工爆破事件から2年後(より正確には1年半後)の1976年(昭和51年)3月2日に起こった北海道庁爆破事件は今もって謎の多い事件である。
 同日、午前9時2分ごろ、札幌市中央区の道庁本庁舎1階ロビー西側エレベーター付近で爆発が起こり、出勤してきた職員2名が死亡、80名余が重軽傷を負った。使用されたのは消火器爆弾で、爆発の衝撃で1階天井が落下している。
 事件当日、地下鉄大通駅コインロッカーから「東アジア反日武装戦線」を名乗る犯行声明文が見つかった。声明は、道庁を標的にした目的を(同庁が)「アイヌ侵略の拠点」であるからだ、としていた。

事件を伝える北海道新聞夕刊。

 同年8月10日、容疑者として逮捕されたのが、大森勝久(扉写真)だった。大森は岐阜大学在学中にノンセクトとして学生運動に参加、その後、太田竜の窮民革命論に傾倒し、やがて彼独自の「反日亡国論」を掲げることになる。太田や反日武装戦線、あるいはその流れを汲む反日過激派たちは、戦前日本の大陸進出、あるいは遡っても明治新政府設立以後の帝国主義を「罪状」として日本を批判するにとどまっていたが、大森の「反日亡国論」はさらにそれを徹底させ、日本国の建国や日本民族の成立(記紀史観)そのものを敵視する絶対反日、反民族的革命論なのであった。つまり日本国であること、日本人であること、それ自体が罪であるという思想なのである。
 大森は今も記したとおり、太田竜に思想的感化を受け、反日武装戦線にも強い共感をもっていたが、本人は武装戦線のメンバーではなかった。

アイヌ革命論はアイヌにとって迷惑千万

 同庁爆破事件に関する大森の関与を裏付ける決定的証拠はなく、大森は黙秘を貫き、裁判では無罪を主張している。しかし反日武装戦線との交友を示す文書やあるいは彼自身が爆破テロを想起していたという痕跡、工具などの状況証拠から、札幌地裁は死刑を言い渡した(83年3月)、その後、高裁を経て最高裁は上告を却下、大森の死刑が確定した(11年12月)。現在、札幌拘置支所収監されている。
 大森は獄中、さまざまな文献を読破、共産革命思想から脱却し、現在は「真正自由主義」(いわゆるところの保守主義を彼はそう呼ぶ)を表明している。今では彼は自他とも認める反共主義者、民族主義者、核武装を含む自主防衛論者である。
 大森は獄中、撃論ムック『沖縄とアイヌの真実』(オークラ出版)に寄せた手記「獄中からのアイヌ論」の中で、「現在アイヌは完全に同化しており、アイデンティティは日本である」「アイヌを先住民と認定することは日本民族の分裂を引き起こす愚策である」という旨を述べている。そして、アイヌ独立を叫ぶのは本土の左翼と彼らにオルグされたアイヌの中の一部左翼であるとまで看破しているのだ。
 その上で、アイヌ革命論の運動家として北海道で活躍していた時代の記憶としてこのように記している。
《私は一九七三年に各地を調査したとき、白糠(北海道東部)で十名ほどのアイヌに囲まれて、君はアイヌの問題をやっている過激派か。我々も日本人だ。独立なんて考えたこともない。君らのせいで我々が誤解を受けて辛い目をする(ママ)のだ。アイヌの中にも過激な主張をする者が例外的にいるが、みんな大迷惑をしている。アイヌを利用するな」と強く非難されたことがある。》
 おそらく獄中の身にある彼の脳裏に去来したのはアイヌたちのこれらの言葉なのだろう。机上の革命論はしょせん肉体ある生活者の言葉にはかなわないのだ。ただ、それに気づくのが、いくばくか遅かったというこということである。

撃論ムック『沖縄とアイヌの真実』(2009年)。他に、渡嘉敷列島での集団自決問題に関する貴重な証言も載っている。

 これはそっくり、筆者が沖縄で見聞したことと重なる。沖縄独立運動を扇動しているのは本土から来た左翼とその同調者だという声をいくつも聞いたし、目撃もした。
 窮民革命論の「窮民」とはとどのつまり、革命イデオロギーのための「窮民」でしかなかったのかもしれない。いや、今や「窮民」は米軍用地成金やアイヌ特権で太る「窮民貴族」となりつつある。彼らが「窮民」である特権を手放すはずもない。「窮民」を救うはずの窮民革命論が結果、「窮民」を固定化させているという皮肉。それは在日問題、同和問題にも共通する病症だろう。

本稿を読まれた方は、ウポポイのヤバさがお分かりになられたかと思う。サヨクは何年もかけて種子を植えておくのだ。それが今世紀になって芽を出した。

 太田竜もアイヌ活動の活動を通して多数のアイヌから「アイヌを革命運動のダシにしており、迷惑極まりない」と批判を受け、じょじょにこの運動から離れていく。転向後は、反ユダヤ、反フリーメーソン、反イルミナティを主題とする陰謀論者、UFO信奉論者、家畜制度廃止を訴える急進的エコロジストとなって、オカルト雑誌などにもたびたびその名を見かけるようになる。また最晩年には、人類を支配しているのは爬虫類という奇説を掲げるようになるが、2009年5月、79歳で物故している。

初出・『ジャパニズム』2015年

(追記)これも『ジャパニズム』誌に連載してた「新左翼から過激派」のひとつである。内容からいって、連載後期のものであるのは間違いない。
 僕の小学5~6年の頃は、過激派の爆弾テロの最盛期で、先生からも「交番の近くには寄ってはいけない」と注意されたものだ。子供らしい正義感で、落とし物を拾っても交番に届けに行くこともできなかったのである。今では信じられない話だろう。
 あと、「アパートに不審な若者が出入りしている。ハンダ付けの臭いがする。そんなときは通報を」なんて回覧板が回ってきた記憶もある。実際、爆弾製造中に爆発を起こし、アパート2階に住む主婦と赤ちゃんが巻き添えを食って死亡するという、いたましい事件もあった。現場の写真を見たが1階天井はそっくり穴が開いていた。爆風で赤ちゃんは、物干しのフェンスに直撃し頭を砕かれている。これが「うっかり暴力」のわけがない。とにもかくにも新左翼の連中が一番狂っていた時期だ。
 
 大森勝久は今も無実を訴えている。筆跡鑑定の結果、声明文に残ってる手書きの×は他人ものであるとのことだ。このままいけば(無実と仮定して)、彼は刑務所の中で生涯を終えるのだろうか。直接事件とは関係ないとはいえ、大森に思想的混乱を与えた道義的責任から、太田、竹中、広岡は事件の真相究明のために何等かのアクションを起こしても罰は当たらなかったとは思うが。
 転向後のオカルトナイズされた太田龍の本は、文章を追っていくだけで、頭の中がクラクラするので、精神によほど余裕のあるときしか読む気力もないが、フリーメーソン、イルミナティ、陰謀論の部分に目をつむれば、結構共感するところもある。特にキリスト教の侵略性については、思うところ大である。一度腰を据えて読んでみる価値はあるかもしれない。

記念会は、太田龍よりも太田竜の信奉者のようだ。
それにしてもすごいタイトルだ。但馬の著作だったらバッシング間違いなしだ。以下目次――第1章 「食人」が中国を発●させた 第2章 中国は全世界を道連れに自爆崩壊 第3章 猛毒「食人中国」を超克する縄文・原日本 第4章 「食人中国」の発●を使嗾する悪魔崇拝教の西洋ユダヤ 第5章 共産中国解体から始まる「宇宙一」の「発●中国」 終章 中国を発●させてたまるか


 

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