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抗日英雄はメイド・イン・ジャパン(後編)

安重根の勘違い

 他章でも少し触れましたが、私個人の評価として安重根を見た場合、せいぜいが森の石松といった役どころがいいところなのです。「馬鹿は死ななきゃ治らない」と浪曲で歌われる森の石松は、おっちょこちょいの早とちりで向こう見ず。そのくせ、正義感が強く曲がったことと嘘が嫌いで、なによりも次郎長親分に対する忠誠心は人一倍強い、愛すべきキャラクターです。もし、石松が刑事事件を起こして収監され、私が看守として彼に接する立場でいたとしていたら、彼の真っ正直な人柄に惚れ込んでいたことでしょう。そして、その一本気な性格を別の方面で活かしたならば、さぞかし立派な仕事をなしただろうと惜しむばかりだと思います。せめてもの形見に、彼の書(石松が書を書くのかは知りませんが)や絵をもらい受けることもやぶさかではありません。安重根もそういった人間的魅力のある人物であったとは推測されます。
 安の石松ぶり(おっちょこちょいぶり)は、彼が公判中に主張したという、いわゆる「伊藤博文殺害の15の理由」にも顕著に現れています。安は理由の1として、伊藤を閔妃殺害の首謀者であるとしていますが、誰に吹き込まれたは知りませんが、これはまったくもって早とちりの勘違い。確かに伊藤内閣の時代の事件ではあるものの、大院君の意を汲んだ禹範善(ウ・ボンソン)訓練隊隊長とその一味の犯行であることは明らかで、何よりも禹範善本人がこれを認めていており、それを理由に彼自身も殺害されているのです。現場にいた数少ない目撃者で閔妃の王子であった純宗も禹範善の犯行であることを証言しているのでこれは間違いではないでしょう。禹範善一味の乱を黙認していたということでいえば、三浦梧楼公使も確かに共同正犯と言えるし、乱に日本人浪士が加担していた可能性は否定できませんが、この事件に伊藤が一切の関与をしていないのは明白です。また、安は、理由の14に、伊藤が孝明天皇を毒殺したことを挙げています。孝明天皇の暗殺説は当時もまことしやかに流れていたといいますが、あくまで都市伝説の域を出ません。これも彼の早とちりです。それにしても韓国人である安が日本の天皇の敵討ちをなぜやろうと思い立ったのか、それこそ彼の皇室に対する尊崇の念を現す証左ではないでしょうか。

悪女から国母へイメージ・ロンダリング(印象洗浄)される閔妃

 まず日本で再評価され、逆輸入の形で韓国国内で取り上げられ抗日英雄として神格化されていく、どうやらこのパターンが見えてきました。現在韓国で、李瞬臣、安重根に続いて反日の聖像(イコン)化が進んでいる歴史上の人物がいます。今出てきた閔妃です。
 閔妃は夫である朝鮮王・高宗を尻目に国を私物化し閔一族の栄達のみを願ってひたすら国庫を浪費し、朝鮮を亡国へ導いた傾城の愚女でした。舅である大院君とは血で血を洗う抗争を繰り広げ、あまつさえ、清、日、露と事大先を変えたために政情はそのつど大混乱をきわめます、彼女がいなけれな、日清日露戦争も起こらず、ひいては日韓併合もなかったかもしれません。まさに亡国の王妃、天下の悪女といったところです。

崔銀姫演じる亡国の王妃・閔妃(扉写真も)。崔のファンだった金正日によって北に拉致される。崔銀姫は申監督と出会ったときはまだ人妻で、二人の関係を知った夫から姦通罪で訴えられかけたことも。

 おそらく、70年代までの韓国での一般的な彼女の評価はそれ以上でもそれ以下でもなかったのは確かです。当時の劇映画に登場する閔妃の悪女然としたキャラクターからもそれがうかがい知れます。戦後韓国で作られた閔妃モノ映画の第一号は『大院君と閔妃』(59)ですが、代表的なのものといえばなんといっても申相玉(シン・サンオク)総指揮、林元植(イム・ウォンシク)監督の『清日戦争と女傑閔妃』(65)です。タイトルからして『明治天皇と日露大戦争』(56)、『天皇・皇后と日清戦争』(58)といった一連の新東宝・アラカン天皇モノにインスパイアされたであろう、シネマスコープ、オールキャストの史劇巨編で、ここで描かれる閔妃は文字通りの女傑、女独裁者でした。プロデューサーの申相玉氏は、のちに同作品で閔妃を演じた、夫人でもある女優の崔銀姫(チェ・ウニ)とともに北朝鮮に拉致され、金正日の大号令のもと、東宝の特撮スタッフとともに怪獣映画『プリガサリ』を撮ったことで日本でも一部で有名な韓国映画界の巨人です。70年代になると、閔妃モノと武侠(剣劇)モノを合体させた『閔妃対魔剣』(70)なる珍品まで作られています。監督は『女傑』と同じく林元植で、閔妃を演じたのは呉樹美(オ・スミ)でした。『景福宮の女たち』(71)での閔妃は、高宗の寵愛を受ける側室をイビり倒したり徹底的な憎まれ役で、むしろ彼女と敵対する大院君が好意的に描かれています。最後は閔妃は殺され、高宗は後宮を追われた愛妾と再会してのハッピー・エンドです。どちらにしても、あまりいい描かれ方はしていないようです。

『殿下どこへ行かれますか』(69)の閔妃はリホルバーをぶっ放すらしい。
『景福宮の女たち』(71)。閔妃の他に、伊藤博文の養女で女スパイともいわれた裵貞子(左の洋装の夫人がそうと思われる)なども登場するらしい。まさに李朝末期女族物語。

 ところが、80年代以降、韓国ではこの閔妃に関して「誇り高く慈悲深い国母」「日帝の飢狼によって殺害された悲劇の王妃」というそれまでとはおよそ正反対の評価が起こっているのです。例によって映画やドラマといったフィクション先行ですが、近年、閔妃が映像作品で登場するたびにイメージの浄化がなされていきました。2002年、韓国KBSで制作され、日本の衛星放送チャンネルでも放映された『明成皇后』では、時代に翻弄されつつも鉄の意志をもって生きた誇り高い女性として閔妃が描かれています。ちなみに「明成皇后」は彼女の諡号です。同ドラマの日本版HPにはこうあります――。
《“明成皇后”は、ある意味、朝鮮近代史においてもっとも象徴的な人物だと言えよう。 俗に言う“閔妃”という呼称は、“明成皇后”を卑下した呼び方で、当時の日本帝国主義が、植民地史観に基づいて付けたものだ。》《“明成皇后”に関する多くの否定的な認識は、帝国主義の日本政府が、明成皇后を弑逆して朝鮮を強制的に占領した事実を正当化するために作り出した、歴史の捏造と偽造に起因するものが大部分を占める。「権力に執着した女」、「国家の利益を犠牲にして、親族の利益を図った女」、「闘争心と気まぐれにまみれた女」、これらはすべて、明成皇后を弑逆した当時の日本の名分である。》《「鉄の女=明成皇后」。彼女の偉大さは、日本の初代総理大臣=伊藤博文が漏らした、「朝鮮を侵略するためには朝鮮の国母を弑逆するほかない」という嘆息に含蓄されている。》
 むろん、ここに書かれていることはすべて史実に反します。「権力に執着した女」、「国家の利益を犠牲にして、親族の利益を図った女」、「闘争心と気まぐれにまみれた女」こそ、史実にそった彼女の正しい評価なのです。そもそも閔妃という呼び方は「閔氏の后」という意味で、ここに卑下のニュアンスはありません。当時、中国でも朝鮮でも女子には正式な名前はありませんでした。有名な楊貴妃は、「楊氏の貴妃」という意味です。むろん、併合反対論者だった伊藤博文が「朝鮮を侵略するためには朝鮮の国母を弑逆するほかない」といった事実はありません。

『明成皇后』(02)。「運命の激流に咲き、凛然と散った悲劇の花」とは恐れ入った。

 ドラマと前後してミュージカル『明成皇后』(海外タイトルはThe last empress)が制作されました。これは海を渡り、ロンドンでも公演されましたが、ファースト場面で舞台のバックスクリーンに、閔妃暗殺とは何の関係もない広島の原爆投下の映像が映し出され、現地の観客をドン引きさせたといいます。制作者の意図としては、日本への原爆投下は閔妃暗殺の報い、とでも訴えたかったのでしょう。原爆はこのように、懲罰という意味を込めて韓国が日本に対するいやがらせによく使うタームです。

ミュージカル『The last empress』(02)。世界に向けての反日プロパガンダのために、閔妃のキャラもだいぶお色直し。
『炎のように蝶のように』(09)。閔妃を演じるのはスエ。イメロンもここまで進んだ。崔銀姫の閔妃と比べてみてほしい。本作では、閔妃と護衛官の悲恋がストーリーの中心。

すべては一冊の本から

 さて、こういった「国母」「悲劇の王妃」といった閔妃の新解釈は、一体どこから生まれてきたのでしょうか。
 加耶大学校客員教授の崔基鎬氏が著書『韓国 堕落の2000年史』(詳伝社・2001年)の中でこう記しています。
《日本のおろかな女性作家が、閔妃に同情的な本を書いたことがあるが、閔妃は義父に背恩したうえに、民衆を塗炭の苦しみにあわせ、国費を浪費して国を滅ぼしたおぞましい女である。このような韓国史に対する無知が、かえって日韓関係を歪めてきたことを知るべきである。》
 崔氏ははっきりとは述べていませんが、日本の女性作家が書いた閔妃に同情的な本とは、角田房子著『閔妃暗殺―朝鮮王朝末期の国母』(新潮社・1988年)であることは明白です。戦後、それまで日本で(多分、韓国でも)、閔妃事件についてここまで詳しく書かれた大衆向けの本はありませんでした。本書では、閔妃と大院君の権力闘争に多くのページを割いてはいますが、閔妃殺害を三浦公使の単独計画と決定づけ、日本人の贖罪感に訴えかけるに充分な内容でした。「悲劇の王妃」というイメージはこの本によって韓国に伝播したものと思われます。いや、正確にいえば、「日本人が認めた悲劇の皇女」かもしれません。そのイメージが定着するにしたがって、韓国では「閔妃」という呼び名を嫌い「明成皇后」を正式呼称にしようという動きが起こりましたが、先もいったとおり、○○皇后というのは諡号(高貴な人に死後送られる名前)ですから、生前の閔妃に「明成皇后様」と呼びかけるのはおかしなことです。

角田房子『閔妃暗殺』。この本によって「悲劇の王妃」という冠だけでなく、写真の女性を閔妃とする印象が定着してしまったが、まったくの別人らしい。他に閔妃のものとする写真は複数存在するが、どれも決定打に欠ける。
ニューヨーク・トリビューン誌に載った閔妃の似顔絵(?)。彼女に謁見したイザベラ・バードは「気品と教養のある女性」と記している。

閔妃屍姦説の出どころ

 百歩譲って暗殺という手段でこの世を去った閔妃を「悲劇の王妃」とすることはよしとしても、その悲劇性を強調するあまり、韓国では彼女が死後、日本浪人によって遺体を陵辱されたという風説がまことしやかに流されていると聞いたら、読者はどう思われるでしょうか。むろん、まったくの作り話なのですが、ここまでくると「悲劇の王妃」のイメージを肥大させるというよりも、むしろ死者に対する冒涜であり、閔妃に対する同情心はゼロに近い私でもさすがに不快感を禁じ得ません。
 この人騒がせな風説の出所は、金辰明(キム・ジンミョン)なる男の書いた『皇太子妃拉致事件』(02)という通俗小説であることが明らかになっています。金氏はこれまでに、南北朝鮮が共同で核ミサイルを開発、日本に撃ち込むという内容の『ムクゲノ花ガ咲キマシタ』(93)で400万部の国内ベストセラーを記録した、反日トンデモ小説の草分け的存在ですが、『皇太子妃拉致事件』ではそのトンデモ度はさらにパワー・アップしています。
 野平俊水著『日本人はビックリ!韓国人の日本偽史』(小学館文庫)に、あらすじが紹介されているので、さらにそれを要約してみましょう。
 ――200×年、日本では「新しい教科書をつくる会」編纂の歴史教科書が検定を通過し、日韓の間で大きな外交問題となっていた。そんなある日、歌舞伎座に芝居見物に来ていたオワダ・マサコ皇太子妃が何者かに拉致される大事件が起こる。韓国人留学生・金イヌを中心とする拉致実行犯グループは、新聞広告を通して、日本政府に対して、駐大韓帝国日本公使館が1895年(明治28年)に日本に送った「電文435号」を公開すれば皇太子妃を解放するという要求をする――。
 ここまで読んだだきで、頭の中がクラクラした人がほとんどでしょう。中には怒りがこみ上げてきたという人、思わず笑ってしまった人もいるかもしれません。しかし、これで驚いていてはいけません。問題は「電文435号」の中身なのです。
 ――電文の内容は閔妃暗殺事件に絡むものだった。日本の浪人が閔妃の死体を屍姦し、これを隠蔽するため死体償却したことが克明に報告されているのだった。日本政府が公表を拒む中、独自に電文を入手したマサコ皇太子妃は大いに衝撃を受け、この電文を手にユネスコの教科書審査(そんなものがあるなど初耳です)に参加し、歴史的事実を明らかにする。皇太子妃の勇気ある活躍で、日本人の残虐性と歴史歪曲が世界の知るところとなり、「新しい教科書をつくる会」のドス黒い野望はついえるのだった――。
 どうでしょう。私自身、開いた口が閉まるまでに小一時間はかかってしまいました。ちなみにこの小説には、徳仁皇太子殿下、中曽根康弘元首相を初め、藤岡信勝「つくる会」代表、黒田勝弘産経新聞ソウル市局長が実名で登場するのだそうです。

 これは余談ですが、韓国では日本の天皇陛下を日王といって蔑みますが、なぜか女性皇室に関しては奇妙な憧れがあるようで、反日トンデモ小説にはたびたび善意の存在として登場します。2002年、チョン・ソンヒョクなる浪人生が書き上げ、在韓日本大使に贈ったことで話題になった『百済書記』という小説では、ハーバード大に留学中の愛子内親王(なぜかジャクリーンという英名をもっているという設定が、韓国人青年・余ミンヒョク(実は百済王の末裔)と恋に落ち、その過程で「正しい歴史認識」を知るというストーリーでした。内容のバカバカしさはともかく、韓国のトンデモ小説にある種のパターンがあることがよくわかります。彼らにとって「歴史認識」とは日韓で研究し確認し合うものでなく、自分たち”教えてやる”ものなのです。
こちらの小説にも、実在する和田春樹東大名誉教授が実名で登場します。

金玉均暗殺を伝える当時の新聞。

 話を戻しましょう。何度もいいますが、死体を辱めるのは支那や朝鮮の文化です。現に、閔氏政権打倒のクー・デタを指揮したものの三日天下に終わり、閔妃の放った刺客に謀殺された開明派の志士・金玉均(キム・オッキュン)の遺体は四肢を切断されて朝鮮各地に野ざらしにされています。これが「慈悲深い国母」が政敵に対して行った仕打なのです。福沢諭吉、頭山満らと深い友情で結ばれた金玉均の墓は東京の青山霊園にあります。彼もまた祖国の土になることは許されなかったのです。
 金辰明の閔妃屍姦説は今や一人歩きし、「事実」として喧伝されつつあります。由々しきかぎりですが、フィクションの日帝残酷話が伝言ゲームを通し、潤色され、やがて「事実」として世界中にばら撒かれるというのは、慰安婦問題を見るまでもなく、韓国の反日プロパガンダの定型パターンでもあります。こと反日に関して、韓国人に史実とフィクションの境界は限りなく曖昧です。

閔妃の命令により、金玉均の遺体はこのようにバラバラにされ野にさらされた。これが「慈悲深い国母」のやることだろうか。

 野平氏が「電文435号」の信憑性について金辰明氏に直接問いただしたところ、金氏は「電文435号」という名称および内容は自身の創作であることを認めながらも、屍姦説の根拠となったのは、角田房子氏の『閔妃暗殺』の記述であると言い張ったといいます。『閔妃暗殺』には《さらに閔妃の遺体のそばにいた日本人の中に、同胞として私には書くに堪えない行為であったことが報告されている。もと法制局参事官で、当時朝鮮政府の内部顧問官であった石塚英蔵は、法制局官末松兼澄あての報告書のなかに「誠にこれを筆にするに忍びないが―」と前置きした上で、その行為を具体的に書いている。》とあり、金氏の「根拠」とはこの記述のことを指すと思われますが、肝心の角田氏も著書の中で「具体的な行為」に関しては一切触れていません。野平氏も角田氏から書簡で確めたところ、石塚英蔵の報告書のどこにも「屍姦を行った」という記述はなかったという回答を得、後年、国立国会図書館憲政資料館で件の文書(「朝鮮王妃事件関係資料」石塚英蔵書簡)にあたり、やはりそのような記述はなかったとしています。
 以下がその該当部分です。

《殊ニ野次馬連ハ深ク内部ニ入込ミ、王妃ヲ引キ出シ二三ヶ処刃傷ニ及ヒ且ツ裸体トシ局部検査(可笑又可怒)ヲ為シ最後ニ油ヲ注キ焼失セル等誠ニ之ヲ筆ニスルニ忍ヒサルナリ/其他宮内大臣ハ頗ル残酷ナル方法ヲ以テ殺害シタリト云フ/右ハ士官モ手伝ヘタリ共主トシテ兵士外日本人ノ所為ニ係ルモノノ如シ。》
(事件後)野次馬が宮殿に押し入り閔妃を裸にして「笑ったり怒号したりしながら」局部を検査したあと、油をかけて遺体を焼いたと読めます。このどこにも「屍姦をした」ということは書かれていません。「野次馬」とあるのは、朝鮮人であると思われます。
 つまるところ、金辰明氏は、角田氏が、「閔妃に同情的な本」に記述するのもはばかった「具体的な行為」に、下世話きわまる想像力を巡らし、「屍姦」をデッチ上げたということです。角田房子氏に何の罪もありませんが、彼女が書いた本が韓国にいいように利用され、新たな反日情報戦の新たなタマに使われていることは確かだといえます。その真偽を問われれば、彼らは「日本人が書いた(言った)ことだ」というふうにはぐらかすつもりなのでしょう。
 ちなみに、以下は、野平氏の著書に紹介されている『皇太子妃拉致事件』の電文435号「閔妃屍姦」の下りです(野平氏訳)。孫引きであることをお断りして、ここに記しておきます。
《浪人たちは閔妃の下着を剥ぎました。一人の浪人が全裸にした王妃の陰部を……人数は確認できませんが何人かの浪人が結局はズボンを脱いで性器を取り出し王妃の白く麗しい体に……精液で汚された王妃を前にして浪人たちは大日本帝国万歳を叫びました。》
 はなはだ猟奇性の強い、ポルノとしてもかなり特殊なマニア層向けの書物に出てきそうなアブノーマルな描写といえます。被害者意識を煽り、読者の反日感情を増幅させるのが目的としても、彼らのいうところの「国母」(!)の遺体を強姦させるというのですから、たとえフィクションであっても、いやフィクションならばこそ、創作者の異様な想像力に声も出ません。これも韓国人の日本に対する潜在的なマゾヒズム願望であると解釈するべきなのでしょうか。

閔妃の墓に土下座させられた日本人

 韓国の反日はすべて日本で作られてきたのです。安重根も李瞬臣もまず日本人が、過ぎる評価を与え、それが韓国に渡り、さらなるお色直しがほどこされ、あるいはまったく正反対の功績が書き加えられ、抗日のイコンとなっていきました。閔妃も今この星座に加わろうとしています。安重根や李瞬臣は憎き日本に一矢報いたという意味でSK(註・ストロングコリア。日本に対し強く優位な韓国像。但馬の造語)のイコンで、「悲劇の王妃」はCK(註・チキンコリア。日本に嗜虐される弱い韓国像。但馬の造語。韓国の対日観はSKとCKを表裏とするというのが但馬の説)のイコンといっていいと思います。日韓合作の最強の反日イコンといえば、いわゆる"従軍慰安婦"につきますが、女性であるという点でいえば、閔妃のケースもこちらに近いでしょう。片や「性奴隷」、片や「屍姦」です。
「明成皇后を考える会」なる奇怪な集団があります。熊本県の元・現職教師で構成されたという同会は、閔妃事件の日本側実行犯の後裔を捜し出して関連記録を調査、殺害事件の真相究明を目的としている会であるとして、2004年に結成、2005年から毎年、10月8日の閔妃の命日に合わせ韓国を訪問、閔妃の生家や墓所を訪れ「謝罪」パフォーマンスを続けているとのことです。2005年5月には韓国のドキュメンタリー番組制作会社の招きで、閔妃殺害の実行犯(国友重章・家入嘉吉)の子孫とされる男女を連れ訪韓、閔妃の墓所で土下座して謝罪するところを撮影させました。その模様はテレビ朝日系の『報道ステーション』でも報道され、私も見ましたが、不快極まりないものでした。墓所についた二人を待っていたのはカメラの放列で、しかもそれはひざまづく二人を真正面から捉えており、明らかに晒し者にすることが目的であるのは歴然で、明らかな人権問題です。女性の方が桜色の訪問着(和服)を着ていたところを見ると、単なる、閔妃の子孫との和解という名目で「考える会」に呼ばれた可能性もあります。

閔妃の墓前に膝まづく二人を真正面からとらえるショット。日本の朝日新聞もこの写真を紙面に掲載したほか、各販売所の玄関に貼り付けた。

 閔妃の曾孫と称する人物が、涙ながらに謝罪する二人に向かって「謝罪を受ける、受けないは、自分がすることではない。政府レベルの謝罪がなければならない」と言い放ったのも、非常に暗澹たる気持ちにさせられたものです。
 前半で紹介した伊藤文吉と安俊生の対面と比較してみてください。この二つの「対面」は、ともに政治的演出(アレンジメント)のともなったものであったかもしれませんが、日韓のそれでは、これほどまでに受ける印象が違うのです。あの時、うなだれる二人にシャッター音と罵声を浴びせた韓国人記者の中には、彼らを閔妃の遺体を陵辱した悪鬼の血を引く憎い日本人と信じていた者もいたことでしょう。
 では彼ら二人のご先祖さま、国友重章と家入嘉吉は本当に閔妃殺害の実行犯だったのでしょうか。国友は当時朝鮮で新聞記者をしていたアジア主義者で、確かに閔妃殺害事件においては関係者として連座し広島で投獄されますが、三浦元公使らとともに証拠不十分で不起訴となっています。家入嘉吉に関しては朝鮮で日本語教師をしていたらしいのですが、事件にどれほど関与したかはまったくの不明です。推定無罪、しかも100年以上も前のことです。さらいえば、たとえ犯人であってもその子孫が罪を負うということは日本人の感覚にはありえません。
 確かに三浦公使が閔妃排斥を念頭に反閔妃派と裏で手を組んでいたのは事実でしょう。彼女をこのまま野放しにしていたら、いずれ朝鮮はロシアに呑まれてしまうのは必至です。では、朝鮮側で閔妃排斥を願っていたのは誰でしょう。志半ばで殺されてしまいましたが、金玉均がまずそうでした。閔妃に捨てられ職を失った旧軍隊の怒りも凄まじいものがありました。しかし、なんといっても閔妃憎しで凝り固まっていたのは大院君です。いや、苛斂誅求に苦しむ国民すべての怨嗟の的が彼女だったのです。閔妃暗殺とは、そういった複雑なベクトルが一点に集中して起こった歴史の大事件でした。
 現代の感覚からすれば、暗殺という手段を決して認めることはできません。しかし、暗殺という非常手段を用いなければ、世を動かせなった時代も確かにあったのです。
 伊藤博文も閔妃も暗殺によって命を奪われました。しかし、韓国民にとって、どちらの暗殺が真に有益だったか、誰が真の意味での義士であったか、彼らが答えを出すには、まだもう少し時間が必要なのかもしれません。
 歴史上に絶対の悪はいないと信じます。閔妃の冥福を祈る心は私にもあります。しかし、彼女を聖女にすることは絶対に許されないことなのです。

(追記)
 そもそも、金玉均が甲申事変で閔妃を取り逃がしたのが、すべての間違いなのである。清の介入を許す前に閔妃を仕留めておけば、彼自身寝首をかかれることもなく、日本も王宮突入という汚れ仕事を背負わされることもなかったと思う。
「明成皇后を考える会」の会長は「真心も同じだ。謝罪する気持ちを正しく伝えるには、100回足を運んでも不十分だ。死ぬまで毎年、この日に韓国に来るだろう」と言っているらしいが、本当に和解と友好を願うなら、むしろ逆効果だ。「相手が謝ればそこで終わるのが日本人。相手が謝ればそこから始まるのが韓国人」、この言葉を送りたい。
 オーストリアから来た王妃をギロチンにかけたフランスは一度たりともオーストリアに謝罪していない。むしろ宣戦布告している。
 いいかげん、「飲めば飲むほど喉の乾く乾杯」はやめるべきだ。


(初出)
ただし単行本収録ぶんは短縮版。本稿が

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