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目からビーム!161母の愛と人質外交

 寺越武志さんの御母堂・友枝さんが亡くなった。92歳だったという。
1963年、13歳の武志さんは伯父たちとともに漁に出たまま日本海上で消息を絶ち、24年後の1987年に、北朝鮮で生存が確認された。漂流しているところを北朝鮮の船に救助された、という筋立てになっているが、実質は拿捕であろう。
 武志さんの場合は「遭難者」ということで、拉致被害者に認定されず、友枝さんも家族会等から距離を置き、独特の立場を取ってきた。日本政府の制裁で万景峰号の入港がなくなってからは、多いときは年に数度、息子と会うために自費で渡朝、その際には持てるだけの衣類、電化製品、現金をバッグに詰めたという。年金は自分のためには一切使わず、掃除婦として体が動かなるその日まで働きとおした。その間にも北朝鮮当局からは、さまざまな無心があったようだ。この老母に、「中古バスを送れ」などという要求は理不尽を通り越して人でなしの所業と言わざるを得ない。それでも、母は、息子の北での地位を守るため、黙ってそれに従うしかなかった。完全な人質である。
 朝鮮は外交の場面でも人質を使う。これは北も南も変わらない、彼らの民族性だ。
大韓民国初代大統領・李承晩は、李ラインで拿捕抑留した日本の漁民を日韓交渉の人質に使った。北朝鮮の帰国事業が始まると、報復として漁民の釈放を遅らせたりもした。最後の抑留漁民の帰国が許されたのは朴正煕政権時だったが、韓国はこの人質外交で日本の対韓請求権放棄と大村収容所にいる密入国者全員の釈放と在留許可という成果を得ている。金日成はやはり「スパイ容疑」で抑留した紅粉勇船長ら2人の漁民を人質に、金丸信に1兆円ともいわれえる戦後補償を密約させた。いわゆる拉致被害者も彼らにとって大事な人質だろう。こういう狡猾な相手に、岸田外交では心もとないと思うのは僕だけか。
 日本には60万人の在日韓国朝鮮人とその子孫がいるが、政府は一度でも彼らを人質として交渉に使ったことがあったか。人質どころか棄民として押し付けられたようなものだ。李ラインの落とし子である。その上で彼らはことあるごとに在日同胞は差別を受けているとして権利拡大を要求してきた。当然、それは本国の利益につながるわけで、いわば、逆人質といってもいいだろう。在日諸君もいい加減気づいたほうがいい。長年自分たちを利用してきたのは誰かということを。母子の絆さえも人質にできるやつらを。
今年こそ人質外交を終わらせよう。そのためには…。

(初出)八重山日報

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