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目からビーム! 126 戦う家族~追悼・仲村俊子さん

 仲村俊子さんが100歳の天寿をまっとうされた。慎んでご冥福をお祈りいたします。
 俊子さんとは一度だけお会いしたことがある。旧知の仲村覚さんに「沖縄でぜひ会ってお話を聞くべき人がいますか」とお尋ねしたところ、「ならば、ぜひうちのお袋に」と言われ、那覇のご自宅までお尋ねすることになったのである。お恥ずかしい限りだが、そのときまで仲村俊子さんに関する予備知識をほとんどもっていなかったことを白状しよう。
 お伺いしたとき、俊子さんはちょうどベッドで軍歌のCDを聴いておられた。すでに95歳のご高齢で、ベッドに腰かけていただいてのインタビューとなったが、驚いたのは、その背筋の凛として一直線なことである。思わずこちらも居住まいを糺したほどだ。
 教職の傍ら祖国復帰運動をされていたときのお話を、写真や新聞のスクラップを広げならいろいろ聞かせてくださった。当時、沖縄も決して一枚岩でなかったことも知った。「貧しい本土と一緒になるより、このままアメリカの庇護下にあったほうがいい」という声もあったという。1ドル360円の時代である。

襷は復帰運動当時に使用していたもの。

「うちがこういう運動やっているせいで、学校では左翼の先生にいじめられましたよ」
 覚さんによく似たお兄さんがそう付け加えた。まさに、復帰運動とは戦いだったのである。そして、仲村家の人々の一本通った土性骨はお母さん譲りなのだと思った。
 お話は戦時中にまで及んだ。俊子さんの実家は、陸軍指定の休憩所もかねていて、少女だった俊子さんは訪れる兵隊さんたちにとても可愛がられたそうだ。
 ある日、こんなことがあったという。せめてのおもてなしとして、ふかした芋を兵隊さんたちに出した。兵隊さんはむろんよろこんでそれを食べてくれた。居間は終始笑いがたえなかった。彼らが帰ったあと、芋をのせていたお盆をもちあげると、その下には何枚かのお札が置いてあったという。兵隊さんたちの心ばかりのお礼であると同時に、それは彼らが二度と再び客として訪れることがないことを意味していた。もう使うことのないお金なのである。次の配属先を知って、俊子さんのお母さんはすべてを悟ったという。
 そこには、『沖縄県史』に記されている、粗暴で傲慢でかつ好色な日本兵は一人もいない。歴史はどこで書き換えられたのだろう。いつか沖縄の本当の歴史を取り戻さなくてはいけない、そう強く思い仲村家をあとにした。

初出・八重山日報
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(追記)去る2月18日、都内で開かれた『仲村俊子さんを偲ぶ会』に参加させていただいた。来賓の方々のお話を聞いて、改めて仲村俊子さんの大きさを実感した次第である。
 翌日、仲村覚さんからメールをいただき、上記「目からビーム!」をコピーして会場で配ればよかったと後悔していると記されていて、大いに恐縮した次第。覚さんが拙文を気にいってくれているということは、俊子先生への何よりの手向けになると思う。
 ただひとつ、僕の勘違いなのは、「訪れる兵隊さんたちにとても可愛がられたそうだ。」という表現で、これは中学生か高校生の俊子さんを想定したもので、大正11年生まれの俊子さんは終戦時には成人になられていたはずだから、実年齢より5~7歳若い。お元気なお姿から、また覚さんと同年代ということもあって、知らずうち亡母(昭和9年生まれ)と印象を重ねてしまっていたようだ。とはいえ、ご家族を含めて兵隊さんたちとはとても親しくされていたのは事実で、妹のような、あるいは(少年兵からは)姉のような存在だったのは確かだろう。
 祖国復帰運動の分裂のお話も衝撃的だった。日の丸の小旗を振り、みなで声をそろえて始まった祖国復帰の運動が途中で、左翼に乗っ取られ、復帰反対闘争に変質してしまった。左翼は本気で復帰を阻止したかったのか、それとも単なる本土政府に配する条件闘争だったのか、僕ごときが知るよしもない。しかし、この沖縄の分裂を見て、本土では「沖縄の人はひょっとして復帰を望んでいないのかもしれない」という疑念も生まれたという。復帰は、沖縄と本土、心を一(いつ)にしなければ、成し遂げることは不可能だ。この危機に立ち上がったのが仲村俊子さんたちだった。沖縄返還協定批准貫徹大会に1000人の県民を集め、決議文をもって俊子さんら8人の陳情団が航路、東京に向かった。
 もし、このときの陳情がなければ、政府も動けず、沖縄の本土復帰もなかったかもしれないのだ。
 
 

 今、沖縄は再び分裂の危機を迎えようとしている。いつの世も人は声の大きい者の言い分に耳を傾ける。「琉球独立」が、果たして沖縄県民の多とする声なのか、われわれはしっかり耳をすます必要があるだろう。



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