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目からビーム!103 76年前の「自己決定権」~沖縄は日本だ!

 玉川学園創立者・小原国芳と沖縄の教育界との交遊については以前このコラムで紹介させてもらった。今回も小原と沖縄にまつわる、とっておきの話をしたい。
 小原国芳は明治20年、鹿児島の久志という港町で生まれた。家の前はすぐ海岸で、窓を開けると交易に訪れる琉球船がよく見えたという。小原と沖縄の縁は幼少のころからなのである。
 昭和21年、小原はその故郷久志の港が見える丘に玉川学園の分校を建てた。丘の上のささやかな学校のささやかな開校式。青空に日の丸がひるがえった。すると眼下の港に停泊していた船から数人の男たちが降り、丘を登ってくるのが見えたという。
《その人たちは何んと沖縄の漁師たちだったのです。永く見ることの出来なかった日章旗! そして歌うことを禁ぜられとる国歌! それが高らかに聞こえる。翩翻(へんぽん)と見える。たまらずに岸に漕いで上陸して、丘に登ってきて、「ゼヒ喜びの祝賀会に加えて下さい、私たちも日本人なのです。琉球の踊りも踊らせて下さい」と! ビックリしました。とても、オカゲで一段とスバラシい祝典が出来ました。》(小原国芳「落穂拾い」『日本新教育百年史』第8巻に収録。)
 この漁師さんたちの言葉に一片のいつわりもないはずである。アメリカの軍政下、彼らがどれほど、国の旗、国の歌を渇望していたか。それを思うと胸が熱くならざるをえない。
 お話ついでにもうひとつ。玉川では、沖縄から夏休みを利用して毎年通信教育生が大勢やってくるという。同校のキャンパスには聖山という小高い丘があり、今も毎朝国旗が掲揚される。昭和38年の夏、「ぜひ毎朝、私に国旗掲揚されて下さい」と名乗り出た学生は沖縄の人だった。沖縄の教育界にその名を刻む宮平博旦氏の若き日の姿である。
最近、「自己決定権」なる言葉をよく聞く。自分の帰属やアイデンティティを決める権利なのだそうだ。その意味でいえば、上の漁師さんや宮平氏の「自己決定」はいうまでもない、日本人である。一部の学者先生や本土の活動家の空論よりも名もない生活者の言葉の方が重く心にとどく。
 今年は沖縄祖国復帰50周年。みんさま、ぜひ国旗のご用意を。

初出・八重山日報

(追記)
「ゼヒ喜びの祝賀会に加えて下さい、私たちも日本人なのです。琉球の踊りも踊らせて下さい」

ラサール石井さん、カチャーシーってこういうときに踊るものですよ。

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