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目からビーム!128 「日本死ね」はどこへ行く

 昭和の時代は、生活に音があったと思う。たとえば、明け方の牛乳配達の瓶の音。あのガチャチャという音に一日の始まりを感じる。昼はとんとんと桶屋の槌の音。夕暮れどきは豆腐屋のラッパ、犬の遠吠えの寂しさ。とりわけ僕の育った東京の下町では、物売りの声音が季節を感じるよき手掛かりだった。夏は金魚売りや風鈴売り、正月は獅子舞や神楽。大晦日は風呂に浸かっていると遠く寛永寺の除夜の鐘が聴こえてきたものだ。これを読んでいる沖縄の人たちも、沖縄ならではの生活の音をなつかしんでいることと思う。
 閑さや 岩にしみ入る 蝉の声(芭蕉)―。蝉の声を聴いて逆に閑(しずか)さを覚える、しかも「静か」でなく「閑か」である。理屈で説明すると野暮になる。感じるものなのだ。僕ら日本人にデフォルトで備わっているこの感性を大切にしたい。
 しかし、その日本人もいつの間にか違う意味で音に対して敏感になってしまったようだ。
 長野県長野市で、「子供の声がうるさい」という住民のクレームで、ある児童公園の廃止が決まったという。調べてみるとこれは決して特異な例ではなく、盆踊りがうるさい、お寺の鐘の音がうるさい、といった、音に対する苦情は全国で増加の一途なのだとか。
 一方、町へ出れば、車の音はもちろん、パチンコ屋やゲーセンから漏れる電子音やジャラジャラ音、美的感性とは無縁の雑多なBGMのカクテル、色も混ぜると灰色になるが、まさしく灰色の音の垂れ流しである。こちらのほうには苦情はこないのであろうか。
 子供の声や生活音をうるさいと感じる人は、与野党が模索する安易な移民政策には断固反対の立場をとるべきだ。異文化の発する生活の音は、われわれの耳には、よくも悪くも違和感を残すからである。イスラム教徒のアザーン(礼拝の呼びかけ)や中国人が祝い事に鳴らす爆竹に、彼らの繊細な(?)耳と神経が耐えられるわけがなかろう。
 待機児童の問題は今も深刻である。保育園を建てようとすると地域住民の反対の声が上がるのだという。理由はやはり「子供の声がうるさい」ということらしい。保育園も今では立派な迷惑施設なのだ。
 何年か前、「保育園落ちた日本死ね」が流行語大賞に入選し、「日本死ね」とは何ごとだと一部で騒ぎになった。なるほど、この場合、「地域住民死ね」が正しかろう。
 
(初出)八重山日報

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