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第10話ロサンゼルス・クラブ

「マックスモーション」でアルバイトをするようになると、月に何度か顔を出すアキさんとも自然と接する機会が多くなった。そんなある日、アキさんから別冊「宝島ラジカル・スケート・ブック」の撮影でお声がかかり、バイトをぬけて上野公園の「円形植え込みバンク」周辺でストリート・スケートの撮影をした。思えばこれがアキさんとの初仕事となった。

「マックス・モーション」でアルバイトを始めて1年程が過ぎたある日、アキさんがひょっこり店にやって来て「山口、今度俺こういうパーク造る事になったんだけど、お前ここでインストラクターやってみるか?」と言って、今や伝説となった「ロサンゼルス・クラブ 三軒茶屋店」のランプ・アリーナの設計図を見せながら誘ってくれた。

当時の日本はバブル景気の真っ只中で、初台に「カフェ・ド・フリッツ」という店内にランページを設置したカフェ・バーが先んじてオープンし話題を呼んでいたが、この「ロサンゼルス・クラブ 三軒茶屋店」はプールバーとダーツとインドア・スケート・パークからなる複合遊戯施設で、ランプ・アリーナと呼ばれるスケートパーク部分にはランページとハーフ・ボウルとストリート・セクションが設けられていた。
「カフェ・ド・フリッツ」がチャチにみえるようなランページとハーフ・ボウルを有するインドア・パークの図面に目を見張った。

ロサンゼルス・クラブのTシャツ

アキさんは俺のどこをそんなに気に入ったのか、自らが設計したこの最新の インドアスケートパークでインストラクターをやれと言ってくれているのだ。しかも「滑ってるだけでいいんだから、最高だろ?」と言う。

俺の脳裏に「スケート・ボードに乗れば毎日が日曜日」というアキさんの名コピーがよぎった。「フフフ、俺の毎日が日曜日になっちまうぜ」迷う事なく「マックスモーション」を後にした俺だったのだが、いざ「ロサンゼルス・クラブ」がオープンし、フタをあけてみれば新大久保にある経営母体の新関建設の本社に9to5で勤務するハメとなった。

これは恐らく、アキさんが本社で一人ウキまくっているのがイヤで付き合わされたのだと思う。何故なら、本来であれば昼間の営業時間中にランプ・アリーナに来る初心者に、インストラクターとしてスケートを教えなければならない筈だからだ。俺の脳裏に「スケートボードに乗らないと毎日が月曜日」というアキさんの名裏コピーがよぎった。

本社にいる間はアキさんと二人でイベントや大会の企画をしているフリをして過ごさなければならないのが異常に苦痛で、女子社員とランチを食いに行ったり、「山口、インストラクターの名刺作るけどヤマ・山口って入れとくか?」「ヤですよ、カッコ悪い」などと言いながら、なんとか5時になるのを待って時間になるとソッコーでアキさんのバイクに2ケツで三茶の「ロサンゼルス・クラブ」に向かった。

そしてここでランプ・アリーナ&ショップの店長を任されていたのが生谷和久氏だった。
関西出身の生谷さんは、アキさんと同様に70年代の第1次スケートボード・ブームの頃から滑っていたオールド・スクールの一人で、東京に秋山兄弟ありといわれたように、関西では生谷兄弟としてならした兄にあたる人で、そのハイレベルなフリースタイルのスキルに眼を見張らされた。

ollie magazineより

俺は一日中ランプ・アリーナにいられる生谷さんがうらやましくてしょうがなく、アキさんのいないところで「いいなあ、生谷さんは」とよくグチをこぼしていたのだが、当のアキさんだって本社にいたい筈もなく、ムシの居所が悪いときはその怒りの矛先はおのずと、アメリカではトニー・アルバ、日本ではアキ秋山を盲目的なまでに信奉している生谷さんへと向けられていった。

この後アキさん、生谷さんを筆頭に長島亘、川村諭史、江川芳文、そして俺と常連スケーターから仲間入りを果たした斉藤君は、 「L.A.C LOCALS」というひとつのファミリーを形成していく事となった。

この「L.A. C LOCALS」ファミリーの中でアキさんは、ストイックな弟のカツ君とは対照的にワイルドな不良の香りを発散させ、当時イケイケだった俺達若い衆のイイ兄貴分となった。

つづく

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