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10年前の震災を忘れていた私。
毎年3月に入ると盛り上がるテレビ。
私はそんなテレビを観て思い出す。
「そういえば東日本大震災ってあったな」
この10年間、そんな時にしか思い出せない。
私は被災していない側の人間だ。
10年前の3月11日に起きた東日本大震災。
あの頃私は14歳だった。
卒業合唱の練習中に、武道館の照明が揺れた。
長野県は震度3。
震源地から離れている場所でも震度3。
震源地近くの東北地方、関東地方はどれほど怖かっただろうか。
家に帰ってようやく状況を把握する。
テレビの前で母親が画面に釘付けだった。
黒く濁った土砂のようなものが畑を覆いつくしながら進んでいく。
画面越しとはいえ初めて見る光景に、興奮したのを覚えている。
襲ってくる津波。
その数メートル先を走るトラック。
結局そのトラックがどうなったかは知らない。
昼夜問わず続くニュース。
ACのCMしか流れなくなったテレビにうんざりした。
10年経った今でも覚えているフレーズ。
「魔法の言葉で、楽しい仲間がポポポポーン」
うんざりしていたCMも、今思えば必要だったのかもしれない。
何故なら、そのCMだけが明るかったから。
絶望のどん底にいた日本には、小さな灯火が必要だったと思う。
そのCMが灯火になれたから分からないが。
東日本大震災から翌日。
他人事のように思えた地震が、すぐそばに迫ってきた。
長野県北部地震。
栄村震度6。
しかし、同じ地方に住みながらも被災しなかった。
少し揺れた程度。
感覚は、もう忘れた。
東日本大震災、長野県北部地震から数ヶ月も経たずに、私の中では風化しつつあった。
当時の私にはインターネットなどの外部と繋がる手段がなかったので、随時どういう状況かなんて分からなかった。
被災者がどんな思いなのかも分からなかったし、正直興味も持てなかった。
中学生にとっては「画面の中の出来事」。
映画みたいな感覚だった。
被災者が聞けば怒るだろう。
命からがら逃げられても、津波に流された数えきれない命と家、福島の原発事故、帰れなくなった故郷、先が見えない状況。
当時、インターネットをやっていて生の声が聞けたのなら。
当時、大人だったのなら。
まだやれることはあったかもしれない。
被災していなくても、被災者の気持ちに寄り添えたかもしれない。
しかし、私は何もしなかった。
きっと募金はしたと思う。そう思いたい。
10年の時を経て、私は24歳になった。
春先になれば東日本大震災、長野県北部地震を思い出すが、海開きをする頃にはきっとまた忘れる。
それを何年も繰り返してきた。
今年こそは、なんてことはきっとない。
そうだ、今年は宮城か福島に足を運んでみようかな。
ほんのちょっとの関心をもって。
これが、被災していない私の10年。
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