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中編小説「押忍」(42)

 葬儀では加奈さんも孝子さんも、予め二人でそう決めていたように涙を流すこともなく、僕もそうした二人の態度に助けられました。師範は毅然と前を向き続け、母さんと口づけを交わした最後の男としての矜持を胸に秘めているようでした。
 慶ちゃんの隣にいる年頃の娘が、僕の従姉妹なのでしょう。
 中学の体育館裏で二度絡んだ遊んだ上級生、迫田の顔は直ぐに分かりましたが、とうに付き合いの途絶えていたはずの同級生までもが数人参列し、そのうちの一人、ジュンが憚りもなく泣いていた理由は、その時は分かりませんでした。

 母さんの死に、不思議なぐらい悲しみはありませんでした。
 癌の痛みや抗がん剤の副作用から、あなたが解放されたことをまず喜びました。
 そして、天国か地獄かは分からないけれど、早いとこ向こうで伊集院隆氏と再会して、そっちにも自転車屋があれば二人で行ってこいよ、と思ったのです。
 火葬場で二つの骨片を、僕はポケットに忍ばせました。
「タクミ、お疲れさん」
「加奈さん、今日はありがとうございました」
「他人行儀な挨拶はよしてよ。今から店を開ける。あんたの貸切よ」
 
 コーヒーがテーブルに置かれたタイミングで、加奈さんは僕に尋ねてきました。なぜ香ちゃんが週末このスナックで働くようになったか知ってる?
「僕を養うべく、少しでも多く稼ぐため」
「半分正解。でもあの頃、香ちゃんは貿易の仕事で充分な給料はもらっていた。それにあんた、お父様の実家からそれなりの額、援助の申し出もされてたんでしょ?」
「そこまでご存知なんですね」
「何ならタクミのお尻の毛の数も教えてあげるわよ」
「本当に知ってそうなので聞かないでおきます」
「私たちが親しくなってお互いに多くの話をするようになってから、夜に働くもう一つの理由を、彼女は教えてくれたの」
「興味ないと答えても加奈さんがしゃべるのは分かってます。どうぞ」
「あんたも可愛くないわね、彼女もできないわそりゃ。香ちゃんはこんな話をしてくれた。タクミは隆さんに生き映しだと」
 コーヒーを飲もうとする手が止まりました。
「親子だから、そりゃ顔は似るわよ。でもそういうレベルではなかったんだって。香ちゃんと隆さんのお付き合いは、最後は不倫で終わった。真面目一本鎗だった人から、嘘をつかれるようになったことが一番辛かったと言ってた。隆さんが嘘をつく時は、左の眉が上がることを、その頃知ったそうよ。確かそんな唄があったわね、昔」
「部屋とYシャツと私、僕が生まれる前の曲ですよ。スナックのママならカラオケの定番曲ぐらい覚えておいてくださいよ」
「見れば分かるでしょ。ウチはカラオケ置くような下品な店じゃないの。タクミは小学校に上がる前、家の皿を割って、それを風が吹いてきて落ちたと言い訳したんだってね」
「全く覚えてない」
「その時あんたの左眉が痙攣していたのを見て、自分まで皿を割りそうになったと、香ちゃん、冗談めかして教えてくれた。あんたが一歳の時にお父様は亡くなって、あんたたち父子に殆ど親子関係などなかった。それなのにそんな癖まで一致して、遺伝子って本当に凄いわよね。香ちゃんはその時初めて、タクミとフルタイムを過ごすことに恐怖を覚えたそうよ。あまりにも惚れてた男に似ていくあんたに。惚れた男の唯一馴染めなかった癖まで受け継いでしまったあんたに」
 だから、土曜の夜だけあんたと離れる時間を作ったの。自分をリセットする時間を。

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