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中編小説「押忍」(60)

「DVDをざっと手に取りながらな、こっちは直接攻撃を当ててはいけない空手で一般には伝統空手または寸止め空手と呼ばれております、こちらは我々極北館が始めた打撃を相手に直接当てて戦う空手で俗にフルコンタクト空手と言います、なんて愚直に説明し続けましたよ、俺も。惚れた女がきっちり二十センチの距離を空けて膝揃えて座っているのを横目にな。自分は今この広い地球で一番徳を積んでいる男だとしみじみ思いながら」
 その光景を想像し、口元が緩むのをどうしても止められませんでした。ジェントルゴリラもまた楽しそうに笑って当時を回顧していました。
「香さん、途中でこう聞いてきた。失礼ですが、先生が所属するのは市民権を得てない方のグループなんでしょうかと」
「ははは、本当に失礼だな。でも正解」
「な。それで俺も答えた。伝統派の全日本大会は休日の昼間にNHK教育が堂々と生放送し、結果は翌日の朝日新聞にも掲載されますが、僕たち極北館の全日本は平日の深夜にCSでひっそり録画放送され、結果はスポーツ新聞にしか載りません」
「考えてみればその通りですね」
「DVDのパッケージからして全然違うもん。伝統派の方はロマンスグレーの渋いおっさんが真っ白の道着をきちっと着こなし、青汁飲んだ直後のような顔で型を披露している写真だった。その一方で極北館のパッケージときたら、血まみれの道着をひるがえしながら角刈りのおっさん二人が腹をどつき合ってる魅惑的な写真で、裏を見たら殺戮だのサバイバルだのケンカ空手だの、さすがに俺もあの時は頬を染めたわ」
「お上品な方の空手に移させます、とは?」
「俺もそう言われるかなと身構えてたら、全く逆だった。タクミにはこちらの方が良かったです、先生、あの子を心おきなく暴れさせてください、と頼まれた」
 あの子はあらゆることが許されずに育ってきた子です、休日に父親と遊園地にも行けず、遊びに来てくれる親戚も友達もいなければ、母親の帰りも遅い。二歳での出口の見えないトンネルをたったひとりで歩くような人生を余儀なく押しつけられ、苦しみのぶつけどころも知らず、幼い頃から自分の抱えてきたものが当たり前過ぎて、それが苦しみなんだという認識すらできていないかも知れません。
 どうかあの子を見捨てないでください。指導してやってください。
「俺は思わず、押忍、と返事したよ。だからオマエをやめさせる訳にはいかなかった」
 
 ここを出ましょう、道場で飲み直しませんかと僕は提案し、いいねと師範も賛成してくれました。
 聞かされた多くの情報と、それが胸の中に渦巻かせる様々な思いが、過電流となって自分の心のブレーカーを落としてしまわぬよう、心慣れた場所で落ち着きを取り戻したかったのです。

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