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「伊豆海村後日譚」(12)

 たった一人で六人の自分たちに喧嘩を売って来るとは予想していなかった高校生たちの嘲笑に、一瞬恐れの影がよぎり、それを元プロボクサーの動体視力が逃すはずもなかった。なんや、全然骨のない連中やんけ。
 背中に視線を感じた。通り過ぎる歩行者が空気を察知し、遠巻きに眺めてくる。男は足を止め、背後を振り返った。見学者たちは即座に眼を逸らせ、再び歩き始める。九巻組構成員は舌打ちをしながら視線を標的に戻し、必要以上に時間をかけて歩を進め、目的の場所でようやく足を止めた。その真下でしゃがんでいる六人の小僧どもは今や完全に目を落とし、やがて意を決したように一人が顔を上げ、余裕ある口ぶりを努めて保ちながら、それでも若干の震えは隠しきれない声で挑発してきた。
「俺らに何か用ー」その口の中にスピードに乗った靴先を入れられてしまったら、それ以上喋ることはできない。高校生は血と折れた前歯を吐いてその場を転げ回った。
 新井はその生贄の襟首を掴んで立たせ、掌底を叩きこんだ。被害者は気を失ったまま倒れ、コンクリートの地面に顎を叩きつけ、そのまま微動だにしなかった。
 残ったガキどもの一人が土下座をしてきた。肩が震えている。
 やってしもた、という後悔と焦燥を感じながらも、新井はその先天的な性向の求めるままコンビニの入口にあった電飾看板を持ち上げ、土下座を続ける高校生にそれを叩きつけた。
 ガラスの割れる音、うめき声、血の匂い。
 現役の極道は彼らにそれ以上一瞥をくれることなく、駅の反対方向へと歩き出した。
 何処でもいい、一刻も早くここ以外の場所へ。
 アーケード通りへと足早に入る。
 こちらに向かっていた中学生おぼしき発育不良の娘が、即座に踵を返す。
「おい」
 少女は足を止めた。新井は近づき、「だるまさんがころんだ」のように不自然に停止していた相手の肩に手を載せた。電流を当てられたように少女は身を震わせ、それでもゼンマイ仕掛けの人形のように振り返り、健気にも顔を上げて彼に向かって微笑んだ。
「お兄さん、強いね」
 黙したまま自分を見下ろしてくる男に、彼女は慌てたように言葉を続けた。誰にも何も話さないから。 
 新井はなおも少女に強い視線を注ぎ続けた。上げていた顔を落とし、娘は震えを隠すようにして繰り返した。本当だよ。
 男は駅の反対方向へと再びアーケードを歩き始めた。ちょっと待ってよ、少女が追いかけてくる。「時間あるなら少し遊ばない?」
 男は足を止めた。
「ね、いいでしょ?お兄さんなら安くしたげる」
「幾つ?」訛りが出ないよう、新井は最小限の言葉で尋ねた。
「ーえ?」「トシ」
「ー十七」そうは見えなかった。
 またしても沈黙を纏った男に、少女は取り繕うように続けた。十五、これは嘘じゃない。
 また歩き始める。少女が慌ててついてくる。
「私、病気は持ってないから」
「いくらだ」
 立ち止まった少女は考える時間を稼ぐように微笑んだ。
「ショートだと三十五ドル、泊まりは八十。ホテル代は別」
 そして付け加える。お兄さんならもう少し安くしてもいいけど。
「おまえ、親と暮らしてるのか?」
 幼い娼婦は顔を上げた。警察なの?
 新井は首を振ってようやく苦笑した。警察が高校生に看板叩きつけるか?
 痩せた少女はそれが許されるのかそうでないのか迷うように笑顔を返し、いや今時の警察なら分からないよと答えた。
「何でそんなこと聞くの?」
「大事なことだからだ」
 少女は一旦息を吐いた。一人暮らしだよ。父親は死んだし、母親は出て行った。
「他に親戚はいないのか?」
「姉貴がいて一緒に暮らしてたけど、最近は帰ってこない」
「泊まりだ」「ーえ?」
「おまえはさっきから二度聞かなきゃ分からないのか。泊まりで八十ドルだな」
「いいの?」
「誘ってきたのはおまえだ」
 少女はこれが何かの罠ではないかというようにしばらく口を閉ざし、何も想像できない自分を諦め、芝居がかった動作で首を横に傾けて笑った。「いいよ。お兄さんの部屋?ホテル?」
「いや、おまえの部屋だ」
 どこの宿泊施設でもチェックイン時に身分証明書の提示を求められる時代だった。警官二名が死んだ現場から急遽逃走したため、車内に置いてあった偽造証明書の持ち出しまで手が回らなかった。連れ込み宿ならば、神戸ではID提示義務は既に形骸化しつつあるが、ここ沼津の事情は分からない。
 眉をひそめた娼婦に、新井は釈明した。
「今日はたまたま本物の運転免許証しか持っていない。俺の妻は三島市議長の娘でね。以前浮気がばれた時、俺の名前をここら一帯のホテルと名の付く施設全てに配信した。だから俺はこの街で、本名では遊べない」
「お兄さん、こっちの人じゃないね。関西?」
「よう分かったな」新井は敢えて破顔してみせた。
「和歌山の生まれや。こっちで嫁の実家が経営しとる店の一軒を任せられてんねや。今度浮気が見つかったら、俺は無一文で田舎に帰らなあかん」
「今日は帰らなくていいの?」
「嫁は視察旅行や」
「あはは。喧嘩強いのに、奥さんには弱いんだね。二つ約束して。まず私のアパート、本当に汚いけど、驚かないで欲しいし笑わないで欲しい。それともう一つ、明日になれば私の部屋が何処にあったか忘れて欲しい」
 そして二人は彼女のアパートへと歩き、今時のこの国の住宅事情を鑑みれば中の下、といったところの部屋に足を踏み入れた。
「シャワーなんて上等なもの、ここにはないよ」
「かまへん。とりあえず服脱げ」
 彼女の希望でー彼にとっても都合が良かったー、明かりを消した状態で肌を重ねた。それでも外から漏れてくる微かな光が男の背中一面に彫られた刺青を照らすのを見ても、少女は何も言わなかった。何も尋ねなかった。土下座する相手の後頭部に顔色一つ変えることなく電飾看板を叩きつけられる男が、いくらこんな時代とはいえ、マトモな市民でないことは明らかだった。
 それでも彼女は男を誘った。ひとつには恐怖のため。もうひとつには、弱みを握られた男が自分に暴力をふるってくることはないだろう、という思惑から。フリーランスの売春家業は、いわば毎晩が殺人被害者となる可能性との戦いだった。姿を消した同世代の「同僚」は数え切れないほどいたし、何かしらの幸せを見つけた故にこの街を離れた者も少しはいる、なんて御伽噺を信じるほど馬鹿でもなかった。弱みを握った男と一晩過ごせば、少なくとも明日の朝までの命は保証される、ただそれだけの計算で、娘はこの屈強な男を咄嗟の判断で自分の客とした。
 三島市議長の娘であるという妻の話も、聞いた瞬間には嘘だと分かっていた。それでも彼女はそれを受け入れた。
 言ってみれば少女の仕事そのものが嘘で塗り固められたものだった。客が息を吐くようにつく戯言も、自分が無邪気に信じてしまえば、私の鼓膜を通過したその瞬間にそれは真実へと生まれ変わる。
 そんな風にして、いつかは私も誰かの鼓膜を通して私の物語を完成させたい。
 物語の中の私は、親のいない売春婦ではない。四畳半のボロアパートでひとり毎日の命をつなぐ十五歳の無力な女ではない。
 父親は会社員。給料は多くないけれど真面目な性格で人望も厚い。母は元看護師。悪い人ではないが少しそそっかしい。学校が休みの土曜日も早起きし、弁当を作って私を起こしに来ることが、今も年に二、三度ある。
 姉は今年高校を卒業して、静岡でプログラマーとして働いている。初めての給料で私にシャネルのルージュを買ってくれた。まだこの子は十五歳だよ百年早いよと母は姉を叱り、百年経ったらこの子百十五歳でしょと姉も言い返して、みんなで笑う。
 次の日、私は学校にこっそりそれを持っていく。クラスのみんなは私のところに集まってきて、凄いじゃんシャネルじゃんと大騒ぎ。放課後はバスケの練習。男バスの啓太が私をちらちらと見てくるのはいつものことだ。
 練習後、みんなでハンバーガーショップに寄って、そこでもう一度ルージュの品評会を行う。帰宅途中に啓太から着信。
「今日は何の騒ぎだったの?」
 わざと返事を遅らせ、私は家に帰ってから口紅の話を書いて送る。直ぐに返信が来る。
「おまえがルージュ塗ったら色っぽいだろうな。今夜はその想像をオカズにするわ」
 バカじゃないの。まあでも悪い気はしない。
 今日の晩御飯はロールキャベツだ。母さんの得意料理だ。
 
 ***

 その日の夕方六時、沼津署六階の講堂に、「沼津警察署警官殺傷事件捜査本部」の帳場が立ち上がった。
「こちら八号車。応答願います。どうぞ」松田巡査のその声にかぶさるように響いた一発の銃声と、それに続く複数の炸裂音は、沼津警察署地域課で無線を受けていた職員のヘッドホンにも伝わってきたし、付近を警ら中だった他のパトカーの無線機スピーカーをも震わせた。現場に急行した最初のパトカーが到着したのは一分二十秒後。銃撃された仲間が明らかに絶命していたのを見て取った沼津警察署地域課所属の山中誠二巡査はいつ来るか分からない救急車の要請を諦め、すぐそばに放置されていた神戸ナンバーの電気自動車の周囲を黄色テープで巻いた。
 無人。運転席ドアは開いたまま。このご時勢あり得ない駐車の仕方だ。巡査は交通第一課に連絡を入れた。「ナンバー照会願います」
 二分後、一課の職員は吐き出された照会結果に絶句した。
 所有者は日本最大の指定暴力団組織、山蛇組の総本部長。
 沼津警察署長は静岡県警本部長に仁義を切ったうえ、兵庫県警刑事部へ協力要請を行った。そして今、帳場に居並ぶ捜査員八十名は、容疑者五人の氏名、写真、その他個人情報が記されたコピーを一様に睨みつけている。
 沼津警察署長の定例挨拶も、いつもとは調子が違っていた。この京大卒のキャリアが通常の手順を踏まず直接兵庫県警刑事部長にコンタクトを取れたのは、両者が同じ大学の先輩後輩の仲であったからで、己の迅速な判断が捜査進捗に少なからず貢献を与えたと内心自負していた若干二十八歳の署長はその部屋でただ一人、溢れ出そうな笑みを押し殺しているようにも見えた。
「本日我々の仲間が二名、無慈悲な銃弾によって尊い命を奪われました。容疑者が特定されたにも関わらず、捜査本部を即時立ち上げた理由は敢えて言うまでもありません。一刻も早い犯人検挙に全力を挙げて取り組んでください。また特に争った形跡もなく、職務質問中の出来事と推測されることより、犯人たちにはそれだけの理由があったものと判断されます。彼らの高い殺傷能力および冷酷性、更にまだ武器を保持しているのが明らかな点も併せて鑑み、反撃に遭った際には躊躇なく然るべき対応をお取り頂いて構わないことを、ここに言明しておきます」
 管理官である県警捜査一課長がそれに続く。
「この度殉職された池山巡査部長は五年前、ひとり娘を殺害されたものの依然としてその容疑者は特定されていない。巡査部長の家庭を襲った不幸がこれに留まらなかったことは、ここで繰り返すことではなかろう。この五年の苦悩を心に秘め、地域の警邏に地道に取り組んでいた彼の霊前に胸を張って報告できるよう、絶対に、絶対にだ、容疑者一味をみすみす取り逃がしてはならない。既に岡宮一体には非常線を張っているが、明日は沼津駅近辺も徹底したローラーを行うのでそのつもりで」
 殺害現場のすぐ近くに放置されていた電気自動車の所有者が山蛇組の大幹部であった、という事実だけで容疑者の公表に踏み切るのは尚早とする意見もあったが、その後に飛び込んできた事件が状況を変えた。
 沼津駅前のコンビニエンスストアで高校生二名が暴行され重傷を負い、複数の目撃情報によればその加害者の人着が山蛇組の二次団体である九巻組の構成員のもので間違いない点が明らかとなり、彼の所属グループに関する情報が当の山蛇組中枢からあっさりと差し出されるに及んで、静岡県警広報課は五人の容疑者-うち四名は元満海国からの亡命軍人で、いかなる事情と経緯によるものか、明らかに不正な手段によって取得した日本国籍のもと現在は日本名を名乗っているが、その取得への関与を山蛇組は完全否定-氏名年齢、顔写真の公表を決断した。
「一点、気になることが」
 暗い眼つきをした刑事が手を挙げる。管理官が頷く。
「県警捜一の森屋です。半年前に御殿場のゴルフ場で麦笛会の会長が狙撃され殺害された件、ございましたよね」
 場がざわめき、管理官が苦々しげに眉間へ皺を寄せる。それが今回の件と何か?
「まあ思い過ごしであればいいんですが、麦笛会の上部団体である一衣組は山蛇組とは敵対組織です。このヤマもまたホシが特定できておりませんが、相当腕の立つ職業的暗殺者による犯行、という見方はその時から衆目の一致するところでした。そして当時、山蛇組がそうしたプロの暗殺グループを組長直轄という異例の形で飼っているという噂がありました」
 捜査本部に徴集された県警組織犯罪対策局の刑事が数人、同意を示すように首を縦に振った。森屋が配布された写しを右手に取り、決定的なコメントで結んだ。
「その暗殺グループも、満海人民軍出身の四人組だったと聞いております」
 暗殺事件があった日のNシステム情報を至急出せ、と管理官が怒鳴った。日本の高速道路、主要国道の各所に設置された自動車ナンバー読取装置であるNシステムは、既に関東周辺では機能不全となっていたが、静岡県以西では一部がまだ生きていた。
 
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