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中編小説「押忍」(47)

 翌朝、孝子さんは広島駅まで見送ってくれました。
「じゃあ、また道場で」
「家出」から川崎に戻った僕に、叔父は一言、次は電話ぐらいしてこいとだけ告げました。
 
 中二の春休みは、全日本大会への出場は叶いませんでした。
 あまりにも稽古時間が不足していたし、地方大会の実績もなく、今のオマエが出場してもくしゃくしゃに折り畳まれて終わりだ、という師範の言葉に何の反論もできないほど、僕の心身は強くなりたいというかつての苛烈な欲求から離れた所にあったのです。
 それでも大会会場にだけは道場仲間と連れ立って行き、そこで整同館の加藤とも再会しました。
 僕はジャンパー姿、彼は空手着でした。分かっていたことなのに、その超現実の光景に包まれた瞬間、逃げ出したくなりました。
「おうムラタ、今回は出えへんのか」
 即答できず、上擦る声を押さえることもできませんでした。
「ちょっと去年から色々あって」
 自分の中にわずかに残っていた自尊心が、母さんのことを話させませんでした。
「来年は出てこいや」
 笑いながら軽く腹を殴ってきた在りし日の好敵手の拳が、僕の全身をずしんと揺らしました。
 彼の姿が選手控室に消えた後、それ以上そこにはいられませんでした。
 一試合も観ることなく、道場生に断りを入れ、その場を後にしました。
 
 中三に進級して間もなく、空手界の巨星、極北館館長が逝去し、フルコンタクト空手名物の「分裂と独立」がかつてない規模で始まりました。もともとは館長のカリスマ性の下に集まって来た荒くれ集団、ボスがいなくなればめいめいが各々のベクトルに向かって身勝手に分散するのは、その生前から自明のことではありました。
 『キョクホクカラテ』のネームバリューを奪い合い、商標権を巡る不毛な裁判を猿並みのーと書けば猿に失礼なー知性を誇るオッサンどもが延々と繰り返した挙句、空手界のガリバーは大きく『極北館』、『新極北館』、『極北会』、「その他諸々の似たような名称」の三団体プラス一団体群に分かれることになりました。
 皮肉なことに、それによってフルコンタクト空手界全体の交流は活性化し、今までのような不平等判定がまかり通る大会は格段に減りました。圧倒的メジャー団体が消滅した今、相互協力を拒み自分が一番オマエは二番、といった認識にあぐらをかく流派が生存し続けられる保証はなくなったからです。
 『新極北館』に属することとなった岡本道場は、新たな規制緩和の波に乗りました。質実剛健なアルミの弁当箱をそのまま大きくしたようなかつての道場にはカラフルなマットが敷かれ、空手道場以外では右翼団体の事務所でしかお見掛けできない『天照大御神』と書かれたかけ軸や、背景も構図も共産国家の指導者の肖像画に瓜二つだった前館長のポートレイトはさりげなく隅に追いやられ、女子更衣室とシャワーユニットまでもが設置されたその場所は、もはや空手道場というよりネイルサロンのような趣をたたえていました。
 大学四年になり、それまでの小児科医志望から高度先進医療ー特に癌研究ー方面への航路変更を決心した孝子さんが道場に顔を出す機会はめっきり減り、それでも僕が小学生の指導を行う日曜日には可能な限り練習に参加してくれました。
 彼女は以前より多く笑うようになりました。それは他の人たちの目には留まることのない変化だったかも知れないけれど、僕にはよく分かりました。

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