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「伊豆海村後日譚」(15)

 そして今、沼津のとある空き家で身を潜めるパク・チョルスの持つタブレットの中には、そのようにして弟が密かに入手した、かつて処理した山蛇組の敵対組織、麦笛会の会長が生前購入していた静岡県伊豆海村にある別荘の住所が入っている。その邸宅は、麦笛会のフロント企業だった熱海のデベロッパーが、半世紀以上前のバブル期と呼ばれた時代に開発した別荘地にある。
 鉄道路線も走っていない伊豆海村の、しけた集落の外れにあった山林を二束三文で買い取ったデベロッパーは、そこに宅地開発申請を行い、合弁相手が暴力団をバックにつけた連中であることなど重々承知の上で村側もそれに飛びついた。「伊豆のチベット」と呼ばれ、観光資源も皆無、周辺の自治体からも合併に際して唯一声をかけられなかった村としては、業者がパンフレットに印刷した謳い文句、「まさにビバリーヒルズを再現した別荘地」によって村の名を全国区とし、自分たちをないがしろにしてきた周りの連中に一泡吹かせてやりたいという思いだけをそこに充満させていた。
 かくしてブルドーザーが入り、山が削られ土が慣らされ、電線も電話線も地下ケーブルに収められ、最新の雨水濾過装置と「天城の天然水を引き上げた」井戸からの水道管が各所を潤し、電柱に代わって道沿いにはクロガネモチが植えられた美しい街並みがそこに造り上げられた。隣には九ホールのゴルフコースも設けられ、村長による華々しいテープカットの後で分譲が開始されたものの、あのバブル期においてさえ販売状況は芳しくなく、テープカットから一年後、分譲地三十六区画のうち実際に上物が建築されたのは七区画だけだった。伊豆海村はあまりに交通の便が悪く、杉林しか見えない風景はあまりに華やかな色彩に欠けていたのだ。
 そして、暴力団関与の噂。
 建築された七軒の中の一軒、中国大陸出身のある演歌歌手が注文した、豪勢というよりは醜悪と呼ぶべきピンク色の洋館が、その噂を決定的なものとした。生涯独身を貫き、『混乱の五年』が始まる三年前に大往生を遂げた彼女が麦笛会先代組長の愛人であったことは、半ば公然化した事実だった。
 残り六軒はいずれも企業の保養所として利用されたが、バブル崩壊と同時にそれらの建物も全て、盛者必衰の理をあらわすかのように次々と廃屋へと転じた。ベントグリーンを敷き詰めたゴルフコースはいつの間にか単なる雑草地となっていたが、管理会社が民事再生法を適用した後、その変遷に注目する者はどこにもいなかった。
 伊豆のビバリーヒルズになるはずだったその別荘地のあまりの惨状に、当時の麦笛会会長がかつてコピー機製造会社の所有していた保養所を買い取り、購入価格の四倍の金をかけて改修し自らの別荘とした。会長は先代組長を通して昔から可愛がってもらっていた中国大陸出身の演歌歌手が生前の間は、彼女宅を時折訪れては地下室で一緒にカラオケを楽しんでいたが、歌手がこの世を去った数年後、凶弾に倒れ、それ以来その家の扉に触れた者は一人もいなかった。
 曲がりなりにも自主管理水道システムが未だ使用可能で、強固な鉄筋コンクリートで作られた空き家があり、放射能汚染や浮浪者を襲撃する若者の恐怖からも解放されたその場所は、不法占有集団であるセンの間でその名が取り沙汰されることもあったようだが、その場所のあまりの不便さが、結果的には彼らをも敬遠させ、今となっては無人の楼閣がつわものどもの夢の跡となっている。
 暗殺時にパク・ジョンヒョンが仕入れてきた情報。
 麦笛会会長は生前、最小限のボディガードを除けば毎夏の一週間をほぼ一人でその別荘で過ごしていた。それは演歌歌手が死んだ後も変わらぬ会長の習慣だった。彼が日中、近隣の村で何かを購入することは一度としてなかった。
 情報の分析。別荘地にはある程度の食料が備蓄されているはずだ。
 明日以降の状況によっては、次善手段としてその家に逃げ込むことも考えておかねばなるまい。
 パク・チョルスはまたも自分が判断ミスを犯したことに気付かなかった。犯罪者が追及の手から逃れるためにまず講じなければならない基本原則は、一秒でも早く一センチでも遠く現場から離れ、県境を越えることだ。
 かつてのエリート軍人は、この期に及んで望郷の念をまだ捨て切れなかった。近隣に潜んでさえいれば明後日九時に沼津港から洋上の人となるチャンスはまだあるのではないかという、冷静に考えれば幼児にも答えが出る蓋然性への夢を、いじらしい程に全身に漲らせ、それを消し去る術を見出せないでいた。
 我慢と節制を唯一の友とし、意見を口にせず、それ以前に自分の意見そのものを持つこともなく、希望はより大きな失望に取って代わられるだけの国で生まれ育った男は、言わば五十を前にして初めて自我の芽生えを覚え、長年苛烈な環境下で培ってきたその判断能力をもってしても、自分がしたい事と自分がするべき事の境界線を冷静に見極めることができなくなっていたのだ。
 チョルスは拳銃を抱いたまま、空き家のたわんだ床に身を横たえた。
 今宵は誰が俺の枕元に立つのだろう。肥溜めに頭を突っ込んだ俺を嗤ってくれ。

 ***

 新井は困惑していた。
 素手で人を殺すのはこれが初めてのことだ。だからよく分からないのだが、人はこんな風に自ら進んで命を捧げるものなのか?
 目の前の少女は能動的に近づき、顎を上げ、力を抜き、短時間で済ませてと自分から頼んできた。まるで肉のついていない首に指を掛けて力を込め始めても、彼女の表情に惧れの色がよぎることもなかった。
 突如、先刻のテレビ映像がフラッシュバックのように脳裏で光った。あれは西日本新人王を獲った直後の俺だった。勝って当然の試合だったし、こんな所で満足できるかという自負もあった。それでも応援に来てくれたジムの仲間や後援者のために、右手を挙げた。会場が歓声に包まれ、何故自分が、ガキの頃から嫌われ者だった俺が、照明を浴びて声援を受けているのか、と思った。嬉しいというより、理解ができなかった。画面の向こうの俺は、だから喜びを爆発させることもなく、白い歯を見せることもなく、淡々と頭を下げ続けていた。
 十年前、俺は確かに前途有望なプロボクサーだったのだ。
 新井は手を放した。
「ーどうして?」
 少女は眉を顰め、男を睨みつけ、初めて抗議の表情を浮かべた。
「ーどうして?」彼女は繰り返した。
「警察にはチクるな」
 新井はようやく、それだけ答えた。
「今日は疲れた。眠らせてくれ。凶悪犯と過ごすのが怖ければ、おまえが出ていけ。宿代なら出してやる」
 少女は首を振った。
 男は横たわり、左手を広げる。十五歳の孤独な女がその中に入ってくる。男は彼女を腕枕するようにして抱きかかえ、髪の毛を指でとかした。彼女は自分の左手を男の厚い胸板の上に置き、汗の匂いのする方へと鼻を向け、深く息を吸った。
 明日の夜から、またひとり。
 今宵だけはこうして眠ろう。

 ***

 その頃ハン・ガンスとチェ・ヨンナムは同じ家の中にいた。警察に追われる外国人が初めて足を踏み入れた町で一人逃げ続けるリスクと、男二人でいることで周囲から詮索の眼を引き出すリスクを秤にかけ、両者は行動を共にすることを無言のうちに決めていた。
 もはや逮捕を免れない状況に陥った場合、二人同時に舌を噛み切ることで、警察がパク・チョルスへと辿り着く手掛かりを一気に消去できるはずという判断もそこにはあった。硬直した社会体制の申し子である彼らにとって、上司への背反は全く考えられないことだった。ましてやハン・ガンスもチェ・ヨンナムも、誰かから何かから強制されることなく、心底かつての満海人民軍少佐を尊敬していた。
 
 自身の父親も人民陸軍第七師団で大尉まで務めたハン・ガンスにとって、第七師団があった豆満江沿いの湿地帯に設けられたキャンプ地を離れ、国家唯一の都市で、かつ軍事上の最重要拠点でもあるハスンに移り住むことは、そして海軍東海艦隊の一員としてその港を防衛する任務に就くことは、偉大な父親を超えるため己に課した幼い頃からの夢だった。
 十五歳の時、テコンドーの全国大会で優勝し、学業も優秀だった彼は地元の高校へ進学する権利を得て、卒業後は希望通り満海人民軍の海軍に入隊したが、配属先は東海艦隊ではなく軍の運動施設で、彼はそこで格闘技の才能を見込まれ、若干二十歳で特殊浸透部隊の教練担当となった。教練の仕事は性に合っていたし、彼の他の追随を許さない強さと無意味なスパルタを排した練習方法は数多の信奉者を生じさせていたが、軍人たる者自分が率先して前線に出たいというジレンマは、常に彼の胸郭内で澱のように溜まっていた。
 転機が訪れたのはその三年後のことだ。
 教練中に突然建物内に入ってきた、東海艦隊の大尉ー当時はまだ大尉だった。身長百七十センチ余。さして大柄でもないその男の歩く方向では、周囲の人波が自然に割れていった。まさに東アジアのモーセだった。
 人格はその者の環境を変え得るが、環境もまたその者の人格を変え得る。
 ばら撒いた日本円で敵対勢力を慎重に手なずけながらも、パク・チョルスの自己過信は既にその頃には始まっていた。相対的に世界を見る訓練を受ける機会のないあの国の若者に、それを見破れというのは酷な話だ。
 海軍の行ける伝説は真っすぐハン・ガンスの所へ歩いてきた。
「君がハン少尉ですか」
「は」
「しゃちほこばることはない。楽にしてください。君は優れたテコンドーの使い手だそうですね」
 部下に敬語を使う軍人にそれまで会ったこともなく、ハン・ガンスには自分が今置かれている状況がまるで把握できなかった。そしてあのパク・チョルス大尉が自分を知っていたという実感が、更に彼を夢見心地にさせていた。「恐れ入ります」
「少尉。君の上司には既に仁義を切ってある。今からハスン港に同行してください」
 それからのことは殆ど記憶にない。気がつけば正装に着替え、気がつけば車に乗っていて、気がつけば港湾に浮かぶフリゲート艦の甲板に立っていて、ずらりと整列した精鋭たちの射るような視線を一斉に浴びていた。
「明日から、君はここに配属となる」
 何だと?今大尉は何と仰ったのだ?
「特殊浸透部隊の教練主任は別の者になった。君には明日から東海艦隊の一員として、力を振るってもらう」
 飛ぶ鳥落とす勢いのパク・チョルスとは言え、ここまで横断的な人事権が大尉ごときに附与されることは、常識で考えればまず有り得ない。
 されるとするならば、それはこの大尉が、ハスンの「あの雲上人」から何十人何百人の頭を越えて直接、権力の如意棒を貸与されていることを意味している。
「信じられないか?」
「僭越ながら、展開が唐突過ぎて」
「それはそうだな」そしてパク・チョルスは再び車をーこの満海国で、これほど無遠慮に車を使うことができる二十代の軍人が他にいるだろうか?とハン・ガンスは思ったー軍運動施設に向かわせ、異動の話が本当であることをガンスに知らしめ、またも首都へと戻る車の中で、今や実質的に彼の直属の上司となった大尉は、直属の上司に相応しい口調に切り替えてこの優れた武術修得者に話しかけた。
「ハン少尉。最初に告白しておくが、ここ最近、実のところ君は非常に微妙な立場にあった」
 少尉は口を噤んでいた。慎むべき時にそれができず、結果的に硝煙の向こうで血を流していった同僚の例は枚挙に暇がない。そんなハン・ガンスの態度を、チョルスは好ましく思った。
「君の訓練はしっかり体系立てられたもので、それを裏付けるだけの技量も君にはあり、何よりも特殊浸透部隊見習いの間で君の人気は凄まじいものがある」
 いや、それはあなたですよ、とハン・ガンスは胸の中だけで呟いた。
「そしてそのこと自体が、君を粛清の対象にせしめる動きがあったんだ。なぜならー」
 そしてパク・チョルスは唇の端を歪めて笑った。この言葉を聞かせるために、この伝説的大尉は運転手を付けず、自らがハンドルを握っていたのだ。
「なぜなら、この国には本物の英雄は必要ないからだ」
 脊髄を戦慄が走り抜け、粘度の高い汗が首筋から溢れ出た。パク・チョルスともあろう者がこの車にマイクが隠されていないことを未確認のはずはないだろうが、万が一ということも有り得る。
 その場合、大尉の命は今夜までだ。第一級不敬罪。お飾り裁判すら開かれることなく一族郎党皆死刑となるのは間違いなく、言うまでもなく自分もそこに含まれる。
 ハン・ガンスはぐったりと体をバックシートに預けた。動悸は収まりそうにない。
 知り合って一時間以内で、俺はこの人と一蓮托生だ。それを意図的にやったのなら、パク・チョルスとは噂通りの人物だ。
 しかしハン・ガンスの驚きはそれだけに留まらなかった。その翌週、一切の部下を排した港内倉庫の一室で、俺も最近は体を動かしていないから鍛えてくれという大尉の誘いに応じて組手に付き合い、自分が心密かにその腕前を自負していたテコンドーが単なる足上げタッチゲームでしかなかったことを、何度も床に叩きつけられながら思い知った。物心ついて以来、拳の応酬で自分がボロ雑巾のようにのされたのは、それが最初の体験だった。

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