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中編小説「押忍」(65)

 孝子ちゃんがこの後も返事を保留し続けたとして、たとえば三年後、彼はそれでもまだあなたに求婚していると思う?と香さんはまず聞いてきました。分かりませんと私は答えました。次に香さんはこう尋ねてきました。もし彼が三年経ってもプロポーズし続けてくれていたとするなら、未来のあなたはそれをうとましく感じてそう?それとも嬉しく思ってそう?両方の気持ちがあるというなら、どちらの方が大きい?
 私は特に迷うことなく答えました。嬉しい気持ちかな。
 そうしたらね、香さんはこう言ってくれた。
 じゃあ、その三年間がもったいない。明日にでも籍を入れなさいな。
 私、それ聞いた時には号泣してた。人生であんなに泣いたことはなかったし、これからもないだろうと思うぐらい泣き続けました。香さんがどれほどの思いを、『もったいない』の一言に込めていたのかを考えると、今でも喉の奥がうごめきます。巧くんの素敵なお母様はそんな私を、細くなった腕を懸命に伸ばして抱きしめてくれました。
 相手の方にお会いしたこともないけど、あなたのような女性を伴侶に選ぼうとする人のことは、私だったら無条件で信用しちゃう。むしろ信用しかできないわよ。香さんのその言葉は今も私たちへのエールとなっています。
 次の日、彼に答えました。とりあえず一年、お付き合いしましょう、それから決めさせてください。彼はもちろんと答えてくれて、ちょうど一年が経ちました。彼はとても優しい人で、自分の心をこの人になら預けてもいいかな、という思いが揺らぐことはなく、とうとう私も決心した次第です。
 巧くん、あなたたち親子に血のつながりがないことも、実は知っていました。香さんがその期間、全て教えてくれましたから。
 香さんは、巧くんが小学生に上がる頃、嘘をついた際に左眉が痙攣した時の話をしてくれました。それはあなたの遺伝子上の父親の癖でもあったそうで、彼女はそれを見た時、目眩がするほどのショックを受けたそうです。でも私に言わせれば、巧くんと香さんは、そんなエピソードを遥かに凌駕する親子でした。たとえばあなたたちは会話の時、相手に発言を促す際に顔を斜め下に傾けますが、その動作は焼き直しのようでした。二人とも右に顔を傾け、それが一度でも左に行くことはありませんでした。食事の時はまず嫌いなものから最初に手をつけることも、上を向く時は何故か必ず眉間にしわが寄るところも、あなたたち親子はそっくりでした。こういう言い方は適切ではないかも知れませんが、あなたたちは無意識のうちに、本当の親子になるための途方もない努力を、お互いに続けていたのではないでしょうか。

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