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「伊豆海村後日譚」(42)

【再び西暦二〇三四年】
 
 その後の経緯は繰り返し茶の間に流されたニュース映像を通して多くの人が知っている。SATが列を成して船に乗り込むシーン、布に包まれた二つの遺体が船から吊るされ港に下ろされるシーン。全国ネットでもそれらは大々的に扱われた。
 その直前に若い女性を中心とした揉め事も音声だけが生中継ーカメラが手で隠されていたため映像はなしーされたが、後のニュースでは全く扱われなかった。誰かが動画サイトに投稿したその会話を聞くと、県警がこのやりとりの再放送を許可しなかったのもさもありなんという気もする。
 パク・チョルスを殺害した男は牧田悦郎、当時四十二歳、事件の三日前までは無職。かつては漁師で、一級小型船舶操縦士の免許は持っていたものの、その資格自体は貨物船のスタッフとして雇われるには無用の長物だ。では何故この男が突如として「いいすとしいびいなす丸」の乗組員として採用されたのか、本人からも船長からも海運会社からも明確な説明はなかった。裁判で全てを明らかにします、と取材に応えた彼は、第一回目の公判を前に留置場でズボンを紐代わりにし首を吊ったから、その真相は結局永遠の謎となった。
 当時操舵室にいた航海士も、あの時は動転していて何が何だか分からなかった、何故牧田さんがあそこにいたのかも不明だ、とにかく恐ろしくて何も覚えていない、という言葉を、言葉だけを判で押したように繰り返した。
 満海民政化信託統治領、ハスン市を根城に活動していたマフィアグループと、武器売買ならびに売春ビジネスを共同で進めようとしていた山蛇組。その二次団体である蜂須賀組の息がかかった街金から牧田が八万ドル近い借金をしていたことが、今私の手元にある当時のタブロイド紙写しに書かれているが、その続報はついぞお見かけすることがなかった。
 被疑者全員が死亡した、この「沼津警察署警官殺傷事件」および「伊豆海村麦笛事件」は、被疑者グループのうち三人は民間人によって処理されたという噂がネットを通じて広がり、またチョルスがパトカーで逃亡したこと、運転していた警官は一切抵抗の素振りも見せずに殺害され、なかんずく自ら彼に警官制服の提供を申し出た形跡があること、なども巷間で囁かれた。
 警官に扮した首謀者が貨物船へと続くタラップを登る間、静岡県警の機動隊や愛知県警の特殊急襲部隊といった精鋭たちがそれを指咥えて眺めるだけだった点は、実際に映像で証明されている。
 そうした諸々の背景によって、事件はうやむやのまま処理され、ハン・ガンスをブロンズ像で背後から襲い頭部に裂傷を負わせた金敷信子、当時六十三歳の行為が正当防衛と認められた件以外には特にトピックもなく、うやむやのままカタをつけられた。
 満海人民軍のカリスマだったパク・チョルスが、借金塗れの元漁師という、いわばド素人にむざむざ撃ち殺された理由は、当時様々な憶測を呼んだが、弟を失ったと知った時点で彼は既に生き残る希望を喪失していた、その後の逃亡劇は条件反射的な行動に過ぎなかった、とする分析が多数の賛同を得ていたように記憶している。
 私もそれを否定はしない。ただ他にも想像はできる。
 一度も他者から否定されることのなかった人生で、彼は最後の夜、弟から反抗され、腹心の部下から同行を拒否された。そしてその事実以上に、そんな彼らの態度に対して何もできず、何もしようとしなかった自分自身をフィルターとして、彼は普通の男へと濾過されてしまったのではないだろうか。チョルスは確かに卓越した兵士だったが、所詮は腕が二本しかなく足が二本しかない、私たちと同じ人間なのだ。
 船の中に山蛇組が差し向けたヒットマンが潜り込んでいる、あるいは乗組員全てが組からの指令を受けている、という予測も、彼ならば当然していたはずだ。そうなれば船は行き場のない密室だ。それに乗ってハスン港に無事到着するというシナリオは、誰の上にも成立しない。逃げ場を失い弟を失い自尊心を失い、故郷への路も失ったパク・チョルスが人生の最期で探していたのは、敵の存在でも故郷の陸影でもなく、もう一度信じられる自己だったのではないだろうか。
 こんな私の素人分析を、彼は地獄で聞きながら笑うだろうか。それでも私は彼に問いたい。
 人生最期のひととき、あなたは何かを見つけることができたのか、と。
 あの時十五歳の売春婦だった私は、事件後「十五歳の中学生」に戻った。
「おまえ、学校戻れ」
 新井敦司は五月のあの日、まだ朝日も昇らない時間、私の髪を手で梳きながらそう言ってくれた。頭の回転も早いし、一生売春婦で終わるタマやない、とも。もちろんその言葉にどれほど真実が含まれていたかは甚だ心許ない。ただ、あの朝私にそう言ってくれた男が、その日の夕方には既にこの世を去っていたという事実が、深い因縁を私に感じさせた。
 翌日には市役所に行き、両親もなく継父名義で賃借契約が継続されていたアパートに暮らす自分の処遇を訴えた。誰かがあの娘こそが伊豆海村麦笛事件の犯人グループが八木橋行きのバスに乗った時に同席していた子だ、と入れ知恵でもしたのだろうか、市役所の対応は驚くほど早かった。一刻も早く私を建物から追い出したかったのだろう。
 私は施設に預けられ、中学校に復学した。強く希望して、私に「便所」というあだ名をつけたあいつらのいる学校に通ったが、あの世代の連中が示す情報伝達速度というのは誰にも説明ができない。私の噂には一味の仲間だったという尾ひれまで付いていた。誰かが私の上履きに画鋲を入れたり、私の机に汚物を入れるといった行為はパタリと止んだ。誰も口をきこうとしなかった点だけは復学前後で変わりはなかったけれど。
 高校にも進み、職業婦人だった頃の蓄えで授業料を捻出し、その三年後、とある国立大学の学生になった。どこで何をしているかも知らなかった姉が、よく頑張ったねと泣きながら支援を申し出てきて、さすがにその時は私にもこみ上げてくるものがあった。相変わらず他人とは表面上の付き合いしかできないが、それでも日常的に言葉を交わす相手は少しずつ増えてきた。その点においては新井には感謝しなければならない。
 もちろん、仮にあの男が生きていたとしても、二度と会いたいとは思わない。あの男は粗野で卑怯な犯罪者だ。それ以上の存在でもなければそれ以下の存在でもない。とはいえ、何故前途有望だったプロボクサーが、十年後にはヤクザの構成員となって田舎の寂れた集落の寂れた商店の裏手で射殺体となって人生を終えなければならなかったのかと思うと、その死をせめて誰かが悼んであげればと願わずにはいられない。
 四年が経ち、十九歳になったある朝、私は事件の真相を調査し始めた。新聞記事も警察調書も裁判記録もネットの掲示板も、既に私が知っていた事柄以上の真実は提供してくれなかったから、現在「大伊豆市」の一地区となった、かつての伊豆海村草履集落を、翌週私は直接訪ねた。
 事件後しばらく、草履は興味本位の観光客で賑わっていたそうだ。それなのにと言うべきか、だからこそと書くべきか、集落の荒廃ぶりは強く印象に残った。商店のあった場所は更地になっていた。合併直後、市役所観光課の職員がこの建物と麦笛会会長が保有していた別荘を事件記念館として残そうと言い出し、それを伝え聞いたコンビニの元経営者―既に他所へ移住していた―は翌日には解体業者を手配し、こう伝えたそうだ。木屑ひとつ残すことなく、跡形を完全に消去してくれ。
 渚無線の主人、渚重三郎は事件の翌々年、心筋梗塞でこの世を去った。伊東市に住む遠縁がネットオークションで無線屋に残されていた商品を完売させたという真偽のほども定かでない噂は、真偽どちらであろうとも胸糞の悪さに違いはなかった。
 金敷夫人は集落に戻ってきた後も、誰と会っても挨拶を交わすことがなくなり、そのうち誰とも会わなくなり、ある日様子を見に行った杉山夫妻によって餓死状態で発見された。
 村八分だった土屋氏は事件後間もなくこの世を去った。その廃屋に限りなく近い家の、ガスコンロの上に残っていた味噌汁の中からモロヘイヤの種子が検出されたが、それが自殺なのか他殺なのか事故なのか、警察も徹底した調査は行わなかった。
 本多幸の行方は杳として知れない。ネットの掲示板によれば岐阜のデブ専風俗で見た、とある精神疾患患者の療養所にいる、大阪で占い師をやっている、といった目撃談があるが、本当のところは分からない。
 安田夫妻はまだそこに住んでいて、ぽつぽつと事件の話をしてくれた。船戸青年の笑顔、人質となった時の恐怖、集落の人間を売ろうとしなかった三留老人の勇気。
「その三留氏の葬儀での、香さんの態度は立派だった。涙ひとつこぼさず、集落の弔問客には、私たちみんな遺族ですからと笑顔さえ見せてな」
 草履集落訪問の度、安田夫妻だけは時間を割いてくれて、一度は家にも泊めてくれた。しかし四回目の訪問時、そこには「売家」の赤い看板が立てられていた。私には一切の事前連絡もなかった。その夫婦の心情はとてもよく理解できて、とてもよく理解できたからこそ悲しかった。
 それ以上、その集落に事件について話してくれる人はいなかったが、その頃には夫妻と沼津警察署を退職した数人の元警官から聞いた話に自分自身の体験談を混ぜて、私は一つの物語をほぼ完成させていた。新井敦司が沼津駅前で高校生相手に立ち回りを演じた直後、出会った売春婦。そこにアンダーマーカーを引き、注釈を加えた。
 それを彼女に送った。三ヶ月後、彼女から返事が来た。
 私は姉からの借金と、家庭教師で貯めたなけなしの小遣いをはたいて、帯広行きの航空券を買った。

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