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中編小説「押忍」(56)

 そして母さんと同じように、英文科のある大学に進もうと思っている、という話までは、さすがに恥ずかしくてできませんでしたが。
「なんやオマエ、英語が得意なんか」
「それ以外は超低空飛行だけどね。これからの空手家には語学も必要だろ」
 なるほどなあー加藤は寝返りを打ちながら溜息をつきました。言われてみればそうかも知れへんなあ。
「それにしても、何でまたそんな遠くへ」
「去年、母親が死んでさ」
 それは全く無意識のうちに口をついて出た言葉でした。まるで脳からの指令を待たずに唇が勝手に動いたような。
 母さん、その時気付いたのです。
 母の死を本当はずっと、僕は誰かに聞いてもらいたくて仕方なかったことを。
 母親が死んでさ、実際にそう口にした瞬間、鼻の奥が痛みました。葬式でも全く泣かなかった自分が、何故、今、ここで。
 焦れば焦るほど、溢れ出る熱を抑えることができませんでした。
 加藤は優しい男でした。声を出さずに嗚咽する僕の横で、何も言わず時の経過を待ってくれました。
「父親は最初からいねえ」
 感情の高ぶりが収まるのを待って、ようやく僕は続けました。
「今は川崎にある叔父の家に居候してんだけど、それまで全くの他人だったんだよ。共有する思い出もなく、家族が俺に冷たい訳でもない。まあ一言でいえば、礼儀正しいよそよそしさ、て感じかな」
「ああ、何となく分かるわ。それはキツいな。このゴクツブシ、ぐらい言われた方がまだ気楽かもな」
「面と向かってそう口にされたら、それはそれでキツいけどよ」
 そして僕らはようやく一緒に笑いました。
「叔父夫婦には娘がひとりいて、学年は二つ下だけど中学は一緒でさ。二人が同じ家に住んでいること、あいつは学校ではやっぱり秘密にしている。気まずいし面倒だし、早いとこ俺が出ていく方がお互いのためなんだ」
 加藤は深く息を吐きました。オマエもなかなか大変なんやな。
「加藤、オマエこそ高校どうすんの?」
「俺の成績はな、ざっと1、1、1、2、2、5ってとこだ」
「5は体育だな」
「そう。スタンダードなオチやけどな。高校は自分の名前が漢字で書ければ合格できるところに進むわ。どのみち俺、将来は自分の道場持つし。学歴なんて関係あらへん」
「整同館加藤道場か、カッコいいじゃん」
「いや、独立する」
「独立?」
「イチから自分の流派を立ち上げるんや」
 隣に寝転がる十五歳が、とてつもなく大きな存在に感じられました。そこまで見据えてこの男は毎日の稽古に臨んでいる、勝てるはずねえ、そう思いました。
「そん時は加藤空手のアメリカ支部、オマエに任せるからの」
「ーそりゃいいな」それはいい。
「分け前は九対一でどうや」
「清貧な代表者で有難い」
「アホ、礼を言うのはこっちや。無欲なアメリカ支部長を持って俺は幸せやで」
 そしてごそごそと寝袋を音立てながら、整同館のホープは続けました。
「秋田に行ったら空手はどうすんねん」
 返答に詰まりました。

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