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長編小説「平壌へ至る道」(115)

「ーえ?どういうこと?」
 聞きたいか、と議長が笑い、周囲の連中も同じような表情をしている。
「丹東に戻ってきた夜、オマエが翌日の昼までだらしなく惰眠を貪っていた間、俺は彼女と今後について話し合っていたんだ」
「議長、あんた朝鮮語できへんやろ」
「情熱の問題だ。チャンスクはオマエの足手まといになるのは嫌だった。でも本音ではオマエと離れたくなかった。そして俺はオマエを北朝鮮に送り届けたことで、非合法に国境を越えるための様々なノウハウを実践的に身に付けていた。心からの情熱の前にはな、言葉は障壁にはならないんだよ」
 中国には黒孩子、ヘイハイズと呼ばれる人たちがいる、と議長は説明を始めた。
「いや、その前にチャンスク、俺にビールとモロキュウ、シシャモを。分るか?」
「かてんしょおち」
 立ち去る彼女の後姿を、相慶は眺めていた。あの尻を今夜はずっと撫でていよう。
「相慶、俺の説明はもういいか?」
「ああ、ごめん。話したければ勝手にどうぞ」

 年々深刻化する都市部の人口増に対応すべく、中国政府は一九七九年に「一人っ子政策」を施行した。指定都市およびその周辺地域に住む漢族夫婦が二人目の子を産んだ場合、彼もしくは彼女の職場での昇進をそこで打ち止めにする、所得税を増やす、罰金を徴収する、といった社会的制裁が講じられ、億を超える対象者は二人目の子供を諦めざるを得なかった。
 この政策は確かに人口増の抑制に効果を発揮したが、生物の本能的摂理に反する人為的施策というものは、どこかで歪みを生じさせるものだ。
 伝統的に男子を尊ぶ傾向の強い社会、妊娠した子が女児だと分るや中絶するケースが横行し、それ以降の国内男女人口比は不自然なものへと変わった。また甘やかされスポイルされた各家庭の「小皇帝」が一歩外に出た途端に示す社会性の低さが、中国国内における少年事件の発生件数を飛躍的に高めていた。
 そして、ヘイズまたはヘイハイズと呼ばれる「黒い子」の存在。
 生んだはいいが処罰が怖い、そんな夫婦がその出生届を役所に提出しなかった二人目以降の子供は、戸籍上存在しない者となった。そうした子供は病気になっても医療行為を受けることはできないし、適齢になっても学校には行けない。
 収容所で生まれた北朝鮮の幼児のように。
 人格形成と教育の機会を簒奪され、基本的人権ーあくまでも中国政府基準による人権だがーを持つことも許されず、周囲からはいないものとして黙殺される、そうした「黒孩子」は中国国内に一千万人から三千万人いるとされている。「存在しない」はずの子供だから、誰も正確な数値を知らないのだ。
「中国のいくつかの自治体では、カネ次第でそうした黒孩子に戸籍を与えている。チャンスクはヘイズであると主張するには歳をとり過ぎているが、袖の下でそれはどうにでもなる。実際どうにでもなった。戸籍を買ったら日本で働かせる、といって申請させた。向こうは大喜びだ。賄賂を手にしたうえ、厄介な人間を一人、国外追放できるんだからな」
「彼女の身元は俺の会社で引き受けることにした。昨年から始まった技能実習制度を利用してね」
 伊勢が続けた。経済発展著しい東アジア諸国への輸出を拡大したい、ひいては中国語も朝鮮語も堪能なこの辺昌淑という朝鮮族の中国人を是非雇いたいと申し込み、受理された。君を今日驚かせるという目的は達せられたから、明日から彼女は本社工場に異動だ。
「そんなに雇って大丈夫なんですか?会社、それほど上手くいってないんでしょ?」
「君が心配することではない。それに輸出拡大云々は本当の話だ。この半年の間で彼女には日本語もある程度マスターしてもらって、一人前の戦力として働いてもらう。ここに来て三週間足らずで、もう居酒屋での注文を聞き取れているチャンスクさんの言語能力は相当なものだ。鄭くん、マトモに魚もおろせない君を抜いて、彼女が上司になることも覚悟しておけよ」
「まあしかし、この方法にも問題がないわけではない」
 議長がその後を引き取った。膨れっ面の工作員を気遣う者はいなかった。
「彼女に認められた滞在許可は二年で満期を迎える(現在は三年まで延長)。もちろんその間に伊勢さんの会社で改めて労働ビザを申請してもらうという手もあるが、それだとこの日本で様々な産業に関する各々の必要技能を習得したのち自国に戻ってそれを広める、という技能実習制度の理念に反するから、確実な手段とは言えないんだ。だが解決策がない訳ではない」

 そして相慶をじっと見つめた。入籍すればいい、こっちの男と。
「ちょっと待ってくれや。俺もこの国では外国人やで」
「オマエは最初に大阪の伝道所で会った時、俺にこう言った。自分にとって国籍なんて重いものではない、当時付き合っていた彼女に日本国籍を取ってと言われたからすぐにそうした先輩もいた、とな。オマエもそうしろ。もちろん朝鮮籍のままでも中国人と入籍してこの国に住み続けることは可能だろうが、今更総連に出向いて婚姻届を出すのも心苦しいだろう?なんと言ってもオマエはあの国で、もし今回の件が洩れれば第一級不敬罪で挙げられる立場だ。それにオマエが婚姻許可願に必要事項を記載して総連に提出するとなれば、筆跡が向こうに記録されてしまうんだ。それはオマエだけでなく、多くの、特に向こうで今も必死で生きている同胞の安寧すらも脅かす可能性を含む。グダグダ言わずに帰化しておけ。民族のプライドだの何だの眠たいこと言うなよ。そもそも惚れた女一人守ってやれないプライドなら、今すぐ捨ててしまえ」

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