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中編小説「押忍」(62)

「そうできれば俺も楽だったけどな。事あるごとに俺は諦めませんよと繰り返して。スナックで俺がキープしてるボトルには、『日本最強のストーカー』と加奈さんに毎回書かれてた。しまいには香さん目当てだったはずの土曜夜の常連メンバーどもも、みんなで俺を応援し始めた」
 師範はそこで笑い、僕も無理してー本当に無理してー笑顔を見せました。笑う理由なんてどこにもなかったのに。
「最後はもう妥協案だよ。タクミの子育てが終わったら俺とお試し同居しましょうと。その時には私もうお婆さんよと言われる度、構いません俺もそんときゃジジイですと答えて、隣から加奈さんが私も独身でしかもこんな面倒な女じゃないけどと茶々入れてくる、その会話のリピートぶりときた日にゃあ、もう殆ど伝統芸能の域に達してたよ」
「仮に師範がキリストの再降臨以来の奇跡を起こして母と所帯を持っていたとしても、その生活はせいぜい数年しか続かなかったですけどね」
「だからどうした」
 ウィスキーで湿った彼の声は、作業中のロータリー車のように道場内に響き渡りました。
「一日でもあの人と暮らせていたら、その名残だけで俺は充分、その後死ぬまで笑って過ごせたわ」
 母さん。あなたはバカですよ。
 世界で一番尊敬する女性と、世界で一番尊敬ーはできないしする気もないけれど、一番多くを語ってきた男性の間に生まれてくる子供を、僕が歓迎しない訳ないじゃないですか。
 疎外感なんて感じなかったと断言できます。あなたたちに負けないぐらい、僕はその子を可愛がっていたと断言できます。
 血がなんだって言うんですか、遺伝子がどうしたと言うんですか。嘘をつく時に左眉が動く男んて、この惑星に数万人はいますよ。
 母さん、師範と結婚しても良かったのに。
 
 翌日の練習後、僕は岡本師範に質問しました。全日本大会はこれからも継続開催されますか?
「ちゃんと『新極北館』主催でやるよ。しかも次の会場は地元横浜だ」
 但し、といじわるゴリラが冷たく言い放ちました。オマエのことは推薦しねえけど。
「ー押忍?」
「なに一人前に眉間にシワ寄せてんだよ。ここ二年ほど、どんな実績をオマエはあげてきたんだよ」
 そして師範は一枚のA4用紙を渡してきました。
 九月に町田で開催される、『新極北館首都圏ジュニア大会』。
「この大会の準決勝進出者までに、全日本への出場資格が与えられる。オマエはまずここで結果を出せ」
 「ー押忍」
 受け取った大会要領を精読していた僕に、同級生が声をかけてきました。
「そこに書いてある『白帯の部』ってのは何?」
「文字通り初心者の試合だよ。トーナメントはまだ危険だから、別の道場の 白帯相手のワンマッチ、一試合だけの勝負だ」
 そうか、とケンシロウもまた、要領にじっと視線を落としてきました。
「オマエも公式戦、出たいのか?」
「まだ入門一ヶ月ちょっとだし、無謀かな?」
「出たいか出たくないのかを聞いてんだよ」
「―出たいよ」「じゃあ決まり」
「ムラタくんの一存で決めていいの?師範の意見は?」
「試しに聞いてこいよ」
 僕が参加希望者欄に名前その他必要情報を書き込んでいたところに、ケンシロウが帰ってきました。
「師範はなんて?」「じゃあ決まり、とだけ」

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