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中編小説「押忍」(32)

 治療はもう望めない、あとはどれだけ痛みを和らげてやれるかだ、という木下医師の言葉を聞かずとも、あの管に覆われた布団の塊を見れば状況は分かりました。
 僕は孝子さん、加奈さん、岡本師範に連絡を取り、あとは死を待つだけになった、と告げました。
 そして迷った挙句、「叔父」にも一報を入れました。
 その夜病室に駆けつけた叔父は、しばらくベッドの横で立ちすくんでいました。
「全然知らなかった」
「もう長くはないでしょう。ここにいても、あなたにも僕にも、できることは何もない」
 僕らは駅に向かい、何本もの通り過ぎる列車を見送りながら、駅のホームで長い話をしました。
「本当の母親ではない、と母から聞きました。既に知ってはいましたが」
 唐突な僕の言葉に、相手は直ぐに反応できないようでした。
「―それ以外には?」
「何も聞いてません」
「そうか。なあタクミくん、今度の週末、家に来ないか?家内も歓迎するはずだし、そこで僕らも多くの話ができる」
「申し訳ないですが、その時にもし母が死んだら、僕は一生後悔します。お時間が許すようでしたら、ここであなたの話を聞かせてください」
「―分かった。ちょっと気持ちの整理をつけさせてもらってもいいかな?家にも電話したいし。どこか晩飯でも食いに行こうか?」
「ここで結構です」
 叔父は電話のために場を離れ、五分後、缶コーヒーを手に戻ってきました。
「何から話せばいいか」
「僕の父と母の関係から教えてください。ここで言う母とは、当然ですが村田香のことです」
 叔父はしばらく黙り、今から話すことは、未だに僕の心にも深い傷を残している、と前置きをしました。君には嘘をつきたくない、ありのままに話すが覚悟はできてるか?
「もちろんです」
「それならいい。まず、兄と香さんの関係がどのようなものであったか、ひと言で表現すれば、最後は不倫関係だった」
 おおよそ予想はついていました。それを第三者から生々しい単語として聞かされる哀しさは、予想を上回るものでした。
「香さんは兄の会社での部下だった。タクミくん、君の本当のお母さんは」
「ちょっと待ってください」
 右手が無意識のうちに彼を制していました。
「僕の本当の母は、今病室に眠っている、あの人ただひとりです。つまらないこだわりに聞こえるかもしれませんが、僕にとっては譲ることのできない原則です」
「―分かった。ではどう呼ぼうか?『兄の妻』でいいか?」
「本当のお母さん、以外なら何でも」
「兄の妻は中枢神経に若干の機能障害を患っていてね、彼女の場合は他人への共感性が著しく低い点が特徴だった」
「他人の気持ちが分からない、ということですか?」
 叔父は頷きました。
「彼女が悪い訳ではなく、そういう個性だったんだよ。しかし毎日を一緒に送る兄にとっては重荷となった。二人の関係は当初から順調ではなく、それでも赤ん坊が生まれた。君だよ。子供ができたら事態は好転するかもしれないと周りは期待したが、兄の妻は君が夜泣きするごとに自分までもが泣き喚き、君を持ち上げて床に叩きつけようとしたこともあった。もちろん彼女には本当に君に危害を加える意思などなかったと信じている。そうしようと思えば簡単にできたのだから。しかし、それ以上彼女に君を養育させるのは危険だと僕らは判断し、祖母、つまり僕と兄の母の家に、君は生後六ヶ月で預けられた。既に我々の父、君の祖父はこの世の人ではなかったから、君は祖母と二人だけで八王子の家で暮らすことになった」

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