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中編小説「押忍」(59)

「冗談に聞こえませんよ、それ。母への最初の告白はどんな風に?」
「オマエが入門した日の週末、スナックに行って、香さんの前に群がる野郎どもを掻き分けて前に座ったら、岡本先生今後ともタクミを宜しくお願いしますと可愛く頭なんか下げてくるもんだから、惚れてしまったようです、と」
「どこまでが本当の話ですか」
「全部だよ」
「母の前に群がる男ってのは」
「あの人目当てであのスナックに土曜ごと通ってたオヤジが何人いたと思ってんだ。俺が月イチしか行かなかったのも、それが理由よ。この見てくれの俺が毎週通って香さんに話しかけたら、他のオッサンどもの足は遠くなる。店の売上に響くだろうが」
「師範、何も考えてないようで意外と物事考えてんですね」
「なあ、今オマエ、てめえの立場を忘れてんじゃねえか?」
「まかり間違えば僕の父親になってたかも知れないんですよ、師範は。僕だって冷静ではいられないですよ」
 彼はその言葉に少し気を良くしたようでした。分かりやすい人です。
「俺だって中小の個人事業主だ。日銭の大切さは全身に刻みつけられてる」
「母は何て答えたんです?」
「余所で飲んで来られたんですか?と軽くいなされて、その夜は撃沈だよ」
「撃沈されず寄港できたことはあったんですか?」
「一回だけ、本当に一回だけだ、香さんが俺のアパートに来たことがあった」
「続きを聞きたいような聞きたくないような」
「薄ら笑いでしおらしいこと言ってんじゃねえよ。香さんは無言で部屋に入ってきて、ぐっと背中伸ばして、殆ど俺を睨みつけるようにして口を開いたよ。今日は勉強のためだけに伺いました、それ以外の目的は一切ありません」
「残酷な女だ。蛇の生殺しじゃないですか」
「オマエよく、自分の母親をそんな風に言えるな」
「血の繋がりはないですから」
「何だ、タクミも知ってたのか」
「何だ、師範も知ってたのか」
 もちろん、僕らはお互いに、相手がそのことを既知であるとよく分かっていました。師範が軽い口調で応じてくれたことが、長年僕の心にのしかかっていた重い蓋を少し動かしてくれたようでした。
「香さんは自分のカバンから何本もの空手のDVDを取り出してきた。図書館で格闘技に関するDVDを借りれるだけ借りてきた、とのことだった」
「何でまた」
「オマエの世界について知る以外に何の理由があるんだ?そもそも香さんはな、空手も野球やサッカーのように競技ルールはひとつしかないと思ってたんだ」
「それが普通の認識で、空手界だけが世間様の一般常識に逆行してるんですよ。寸止めとフルコンの違いについては?」
「それは少し知ってたけど、伝統派もフルコンも大会では一堂に集まるもんだと」
「そんな社交性があれば空手なんてやってませんって、みんな」
 確かに、と師範は白い歯を見せ、その表情のまま生前の母さんにまつわるエピソードの続きを披露してくれました。

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