中編小説「押忍」(71)
整同館特有の間合いより更に遠い、約二メートル半の距離。僕が近づこうとすると相手の前蹴りがそれを阻止し、床を踏み鳴らして挑発してみても、彼は一切それに乗ってこようとはせず、三十秒前の愚を繰り返すことはありませんでした。
打つ手なし。それでも距離を詰めようと僕は前進を繰り返しました。
目の前の男が左斜めに飛び、そのコンマ数秒後、顔の前をマサキの右足が高速で通り過ぎていきました。場内がどよめきに包まれました。
所詮空手家は空手家です。負けず嫌いという粘土で人形を作り、神様が息を吹きかけたらこうなりました、といった感じの生き物です。自分の倒された技で倒し返す、そんな意図がそこにあるのは明らかでした。
相手が近づいてくるその瞬間は、僕にとっても攻撃のチャンスでした。再び右足がしなってきた瞬間を狙い、残った軸足に柔道の出足払いのようなローキックを叩き入れました。
マサキが倒れ、岡本師範の声が響いてきました。
「タクミ!それでいい!オマエはちょろちょろ動くな!」
整同館側からは去年の五月、大阪で僕を焚きつけてくれたた二宮師範や加藤たちの声援も聞こえてきました。
「マサキ、コンビネーション使え!単発でいきなり当たる訳あるかい!」
それでも意地を押し通すように、二度続けていきなり右の蹴りを出してきた彼を、二度とも床に転がしました。美しい技でも派手な蹴りでもなかったけれど、勝てばいいのだし事実この試合は勝った、そんな油断もありました。
敵側の声援も、マサキの一見青二才な組手も、その秘密兵器への布石でした。
相手はまた左ジャブから右膝を上げてきました。バカじゃねえのかこの野郎、僕がカウンター用の左ローキックの姿勢に入った瞬間、側頭部に衝撃が走りました。
上げた右膝をもう一度地面の方へと引き戻し、その反動で飛び上がりながら逆の左足を跳ね上げる、「二段蹴り」でした。相手の右膝だけに意識を注いでいた僕は、逆方向の死角から自分のこめかみを襲いつつあるマサキの左足甲に全く気付きませんでした。
倒れはしませんでしたが、僕も技ありを取られました。
体はぐらぐらに揺れ、残り時間は平衡感覚を失いながらひたすら逃げ続けました。それでもリーチに勝る相手の蹴りを何発か体に受けたところで、試合終了を告げる太鼓の音が僕を救ってくれました。
前半の僕の優勢を評価する副審、側頭部にクリーンヒットした蹴りを重視した副審、旗は赤白二本ずつ上がり、場内がざわつく中、主審の手は引き分けを宣告しました。
延長戦。
目の前の小僧が叫びました。「いてもうたるわ!」
いてもうたる?
この俺に言ったのか?
横浜の町でそれなりに名を馳せた、この俺に?
上等じゃねえか、この野郎。
足を止め、地面に両足を踏ん張り、そして僕は怒鳴り返しました。
「かかって来いやコラア!」
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