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中編小説「押忍」(58)

 新横浜駅北口を出てすぐの高層ホテル、最上階のティーラウンジ。
 その中身はよく分からないけれどお高いことだけは容易に推察できそうなグラスをテーブルに置き、窓の外に広がる横浜の風景を当然の権利のように眺めている善男善女の中にあって、僕らはガーデンパーティーの最中に見つかった他殺体のように場違いな存在でした。
「師範」「ん」
「こんな所で飲んでいいんですか?僕のせいで年間百八万円の逸失があったのに」
「可愛くねえなオマエは。じゃいいよ、今すぐここを出てコンビニで缶コーヒーでも買って帰るか」
「オレンジジュース、いただきます」
 この純情ゴリラが何の話をしたいのか、長い付き合いの僕には想像がつきましたから、こちらからパスを出してあげました。
「母が土曜ごとに入っていたスナックに、月何回通ってたんですか?」
「せいぜい月イチだ」
「告白はしなかったんですか?」
「質問は一つじゃねえのかよ」
「この話題には二度と触れませんから」
「告白は何度もしたよ。最初がいつか、聞きたいか?」
「押忍」
「オマエが八歳で入門した日の、その次の土曜だ」
 母さん、そんな話ぐらいは生前に教えておいてほしかったです。僕はあの時、口にしていた一杯千円のジュースを危うく吹き出しかけましたよ。
「ー想像を絶する早さでした」
「オマエが見学に来た日のこと、覚えてるか?」
「もちろん。師範はこう言ってくれました。学校が終わったら真っすぐ道場に来い。あれは実際、救われる申し出でした」
「俺自身、自分で言って驚いたけどな」
「―どういうことですか?」
「当時は道場経営だけでは俺も食えなくて、昼はバイトしてたんだ。道場のオープン時間、本当は五時だった」
「知りませんでしたよ」
「オマエが道場内を子猿のようにうろつき回っている時、ウチは母子家庭ですので毎日五時きっかりにお邪魔させることが許されれば有難いのですが、と香さんが言ってきて、俺はその場で即答しちまったよ、学校が終わったら直接来て頂いて構いません」
「バイトはどうなったんですか?」
「辞めるしかねえだろが」
「―何と言えばいいのか」
「別にそのことで俺に一生感謝する必要もないし、俺の高潔な人格を見学者にそれとなく匂わせる必要もない。中元歳暮を欠かさず送ってくる必要もないからな」
「言われなくても全部やりませんけど」でも、本当は感謝しています、あなたの道場で幸せでした、僕は隣の大男に聞こえないようにつぶやきました。
「俺にとっても結果的にあれで良かった。バイトという逃げ道も絶って、プロの空手家としてこれ一本で食ってくという踏ん切りをつけることもできたしな。実用面でもよ、道場を午後二時オープンに変えたところ、オマエと似たような親が働いている子供の会員が託児所代わりに入門させるようになって、マーケティングの重要性とやらを知ったよ。まあ数年以内にそいつらの殆どが、ムラタくんが本気で殴ってきて怖いです、と言いながら辞めていくことになる訳ですけどね」
「師範が将来介護の必要な爺さんになったら、ウンコは俺が拭いてあげます」
「死んでも嫌だよ。俺は若いねえちゃんの腰に手をやりながら、もう岡本さんたらいつまでもヤンチャなんだから、なんて言われつつケツ拭いてもらう所存だよ」

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