中編小説「押忍」(67)
冬休みに入り、加藤から電話がありました。「またこっちに出稽古来いへんか?」
どこまで空手好きなんだ、こいつは、と僕は苦笑を禁じ得ませんでした。
「いや、そろそろ本番も近づいてきた。手の内はもう見せねえ。それにこの冬はさすがに家でどっぷりと受験勉強だよ」
「そうか、オマエ受験生やったな」
「一応教えておいてやるけど、オマエも以下同文なんだよ」
「わはは。自分の名前を漢字で練習しとくわ」
「受験が終わったら、溜めに溜めたストレスをオマエにぶつけてやるよ」
「返り討ちにしたるわ。ほな」
好敵手は電話を切る直前、早口で伝えてきました。
頑張れよ、オマエの合格を楽しみにしてるで。
母さん。高校入試のために向かった二月の秋田は、想像を絶する寒さと、想像を絶する雪と、想像を絶する曇天の世界でした。
ここで三年間を過ごすことに、いささかの不安も感じなかったと言えば嘘になります。でも師範が言うように、これが僕の決めた道なのです。
入学試験を受けた翌週、合格通知を受けたことそれ自体より、そのニュースを伝えるべき相手がいつの間にか何人もいる自分であることが、本当に嬉しかったです。
本当に、嬉しかった。
孝子さんからの返信。
『おめでとう!結果は私も気になってたけど、こちらからは聞けなかったから、招待状も出せずにいました。でも晴れて合格したあなたに、今なら頼めます。私たちの結婚パーティーに出席してもらえないかな?加奈さんも岡本師範も来てくれます』
日取りは全日本大会のちょうど一週間前でしたが、悩みはしませんでした。七年間、時としてスランプに陥りながらも稽古を積み重ねてきた僕です。ここで一日稽古を休んだぐらいで試合に影響を与える程度の技量では、どのみち加藤の待つステージまではたどり着けないでしょう。
三月の第三土曜。
山手駅から根岸森林公園に向かって坂道を十分ほど上り、海が見える小さなフランス料理屋に到着しました。
同じテーブルに座った加奈さんは既に泣いていました。
「タクミ―ひさしぶり、合格おめでとう。ここに香ちゃんがいれ」その後は言葉になりませんでした。
師範は僕に体重を尋ねてきました。
「今朝は66.2キロでした」「じゃあ、あと1キロちょいか」
「押忍。一応今日はドカ食いは控えておきます」
「それが聞きたかったんだよ」
暴食ゴリラは満面に笑みを浮かべました。ここ、めちゃくちゃ有名な店なんだぜ、オマエみたいなガキは知らねえだろうけどよ。師匠としてオマエの試合準備に協力してやるのは吝かではねえから、今日オマエの皿は全部俺の前に持って来い。
上品そうな老夫婦―女性は孝子さんに生き写し―が近づいて話しかけてくれました。
「あなたがムラタさんですね」
「はい、初めまして」
「娘からあなたの話は、少なく見積もって百回は聞いたから、今日も初めてという感じがしないわ。どうか本当に親戚のつもりで、今日は一緒に孝子の門出を祝ってやってください」
「ありがとうございます」
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