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長編小説「平壌へ至る道」(110)

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 ちょうどその頃、相慶たちは知る由もなかったが、李昌徳の想像通り、平壌の町は蜂の巣をつついたような騒動になっていた。万寿台の丘までもが封鎖され、首領詣でに来た北朝鮮各地からの善男善女ー但し全員が核心階層ーや外国人旅行者はこの観光名所からシャットアウトされた。
 
 朝鮮人民軍平壌防御司令部、安サムチョル大佐は、その日の夕刻、朝鮮労働党本部経由で「党総書記から最上級の機密に関わる件」において呼び出しを受けた。召喚それ自体は予想の範疇だったが、まさかその日のうちだとは思わなかった。明け方に相慶と街中にバラまいた九枚の写真と手紙が、予想以上のスピードで市民に膾炙し、予想以上のスピードで奥の院にまで伝わった、ということなのだろう。
 充分な準備不足は、逆に僥倖だと思った。数夜をあれこれ悩みながら寝不足で過ごし、冷静な思考力を削った挙句この国の現人神から審判を受けるより、今日にでも己の運命の行く末を見定めてしまう方がまだいい。一晩の眠りか永遠の眠りかはともかく、早めに体を横たえたい。
 きっかり十七時、職場の前に横付けされた216ナンバーのベンツに乗り込んだ安大佐は、自分で目隠しを縛った。
 それは吉兆だった。自分が死刑囚ならば、誰かの手によって眼球が潰されかねない力で目隠しをされていただろう。
 「国家非常時発令」の適用を受け、その途上の信号が全て青色に点滅する中、暗殺を恐れる金日成が平壌市内に保持していた十五に及ぶ執務室の中で、最も彼本人が気に入っていた、市中心部から北へ約八キロの場所にある大城区域嵋岩洞と千鶴洞の間にあった建物の前ー無論そのことを大佐は知る由もないーで、ベンツは停まった。
 目隠しをしたまま大佐は車を降り、左右の腕をとられながら前進した。腕を握ってくる、恐らく屈強な警護兵は必要以上の力を掛けてくることもなく、ますます安大佐に希望を持たせた。
 それも建物の中でようやく目隠しが外された時、目の前にあったぶ厚い扉をものともしない、建国の父が発散する強烈な磁力を感じた大佐の喉は急速に枯れ枝の如く渇いた。
 ここからが自分の命運を分ける一瞬一瞬の連鎖なのだ。
 衛兵のノックに、聞き慣れた声がした。
「入れ」
 尿意が腹を刺し、足が震え始めた。いっそ取り外してしまいたいと思うほどに胃袋は暴れ、痙攣を繰り返している。
 しかしその部屋に一歩足を踏み入れた途端、恐怖と緊張は押し流された。過度の電流に耐えられなくなった精神が、ブレーカーを落としたように。
 
「あいつらはどうした」金日成はそして、数人の老人の名を挙げた。みな朝鮮人民軍の元帥で、その中の一人は彼の不倫相手の旦那だった。
 大佐は口をつぐんだままだった。
「ふん、腰抜け揃いのドブネズミどもめ。大佐風情ひとりにご注進の役割をおっ被せたか。まあいい、今平壌で起こっていることを、君の口から直接、知っている限りのことを聞かせてもらいたい」
 
 安大佐は最初は震え声で、次第に落ち着きを取り戻した口調で、鄭相慶が手紙に書いた内容に沿って捏造した経緯を説明した。
 金日成の顔が朱に染まり、その怒りは短時間で頂点に達した。
「馬鹿どもが!役立たずどもが!日和見主義の走資者どもが!どいつもこいつもそんなだから、俺は安心して引退できないんだ!」
 机の花瓶を掴み、老人はそれを壁に投げつけた。花瓶は粉々に割れ、水が飛び散り、活けていた蘭の花が床に落ちた。
 その時の自分が取った行動を、安自身、実はよく覚えていない。深酒で酩酊したような精神状態であり、おぼろげな記憶はあるが、なぜそんなことをしてしまったか、今なお誰に対しても、そして自身に対しても、説明はできない。
 彼は壁際に歩いた。おい、どこへいく、そんな咎める声が背中に当たったような気もするが、大佐は歩みを止めず、壁際に落ちた蘭を拾って、軍服の胸ポケットに挿した。
「首領様のお名前が付いたこの美しい花に罪はありませんから」
 部屋の四隅に直立不動でライフルを掲げたままの兵士たちは、微動だにしない。
 金日成は宇宙人でも眺めるような眼つきで、大佐を見つめた。ぜいぜいと荒い息を吐き、髪は乱れ、口元からよだれが流れていた。そこには肖像画やニュース映像で見る大柄で端正な民族の父としての姿はなく、ただ疲れ、薄汚れた老人が一人、いるだけだった。
 もういいや、と安は思った。馬鹿馬鹿しい、殺すならもう殺せ。
 金日成は机の上のコップを取り、中の水を飲み干した。落ち着きを取り戻そうとするかのように、執務用の椅子に深く座った。
「安サムチョル大佐だな」
「はい」
 安は驚いた。この偉人がまさか自分の氏名まで覚えているとは思いもよらなかった。もちろんこの三十分ほどで慌てて記憶したのかも知れなかったが、こういう部分があるからこそ、他にどれだけ問題を抱えていようとも、このカリスマは四十年以上カリスマであり続けられたのだろう。
「大佐、建前はいい。本音で答えてくれ」
「はい」
「俺はどうするべきか。この手紙に従うべきか。本音で答えてくれ」
 そして首領は、原紙かコピーかはともかく、机の上の紙切れを手にした。
 それは遠目にも今日の明け方、他でもない自身があのチョッパリまたはパンチョッパリの工作員と一緒に平壌の町中に撒き散らしたものであると、安サムチョルには分かった。

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