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中編小説「押忍」(46)

 衝動的にその声が聞きたくなり、三島駅から彼女に電話をしました。
 ちょうど広島に帰省しているよ、と孝子さんは言いました。
 母さんの人生の最終期を友人として過ごしてくれた、道場生にして医学部の学生だった、孝子さん。
 僕はそのまま新幹線に乗りました。
 
 広島駅から山陽本線に乗り換え、宮島口で下車し、フェリー乗り場で再会した彼女は、たった二ヶ月で雰囲気も様変わりしていました。
「大人っぽくなったな」
「少しお化粧するようになったから。でも中学生にそう言われると、ちょっとドキッとしちゃうわね」
 港の待合室に流れていたBGM。
 透き通った女性の声が、胸腔の深部まで染みてくるような歌詞に彩られたメロディを、静かに歌いあげていました。
「素敵な歌だな」
「関西や広島じゃ有名だよ。赤ちゃん紹介のテレビ番組で使われてるからね」
「何て曲?」
「熊木杏里の、誕生日」
 やがてやってきたフェリーに乗り込みました。十分程度で宮島に着き、船を降り、厳島神社を通り抜けました。
「ここじゃマズイかな」「まだ人の目もあるしね」
 神社を抜けて、森閑とした山道に入りました。冬でも針葉樹の香りが鼻腔をくすぐり、僕らの足音の他には遠くからの微かな波音しか聞こえてきませんでした。
 人の気配も消え失せた夕方の公園。
 僕らは落葉した紅葉林の向こうに神社を辛うじて眺めることのできる場所に大きな木を見つけ、その根元に穴を掘りました。
 三島で老婆に二つとも差し上げるつもりで、結局一つしか渡せず、この手に残っていたもう一つの骨片。
 それを穴に埋めて、二人で長い間合掌しました。
 僕らだけの母さんの葬儀が、終わりました。
「確かにここは別世界だ」
 
 僕らは夜の帳が下りきる前に、海沿いのカフェで早めの夕食をとりました。
 窓から見える夕暮れの瀬戸内海は群青色に染まり、沖を大型船が渡っていました。
「潮流が結構あるんだな」
「川みたいでしょ」「うん」
「瀬戸内海って実は、世界でも指折りの船の運航が難しい海域なんだって」
 夜になって、海岸沿いの道を散歩しました。
 日が沈んでライトアップされた厳島神社の鳥居と、その向こうに煌めく本土の町の灯。
 母さんも連れてきたかったよと僕は言いました。
「連れてきたじゃない」
「―そうだね」
 孝子さんだけが最終のフェリーで本土に戻り、僕は彼女が予約してくれていた宿に泊まりました。畳の部屋で眠るのはものごころついてから初めてのことで、そうした経験すら無縁だった自分の十四年という人生は、やはり宿命的に恵まれたものではなかったのか、それとも血の繋がらない母親が無償で与え続けてくれた豊穣な日々は確かに僕の血肉となり、誰よりも幸せな記憶の連鎖と共にこの体内に息づいているのか、考えれば考えるほど分からなくなりました。
 最後の骨をこの島に埋めた、母さんの人生。三島でひとり生き続ける、その母親の人生。
 波の音に引き摺られるように、明け方になってようやく浅い眠りが訪れました。

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