見出し画像

長編小説「平壌へ至る道」(82)

「このバス、中国人の観光客用だよね?私、商売柄ロシア語と中国語は少し話せるよ。詳しいのはあっち方面の言葉ばかりだけれど」
 翌朝、目覚めた相慶に、既に起床していたチャンスクは告げた。深夜まで多くを語り合い、少しは胸襟を開けた印象の名残は、その口調には微塵も感じられなかった。別に何かを期待している訳ではないけど、と相慶はひとりごちた。
 昨夜の彼女の言葉は正鵠を射ている。男ってのは本当に甘い生き物だ。
「とりあえずバスを降りよう」
 二人は外に出た。ダムが朝靄の向こうに見えている。
 幾重にも重なった山の稜線が、紫色のグラデーションに染められ、朝日に照らされ始めた空の下を彩っている。
 まさに山水画の世界だ。
「こんなに美しい国なのに」
 チャンスクは囁くようにつぶやいた。

 それから一時間、彼らは車両から少し離れた場所で待った。
 運転士がやってきた。二人。星は自分たちに向いているのかいないのか。
 しかし、ここまで来れば後は行動あるのみだ。元山の娼館、チャンスクの部屋でもらった平壌市民の平均的な服装に身を包んだ相慶は、「妻」を引き連れ運転士たちの前に速足で歩み寄った。
 揃って足を止めた運転士に向かって、相慶は愛想笑いを浮かべた。おはようございます。
 相手は一言も発しなかった。
「実は昨夜、僕たち新婚旅行で平壌からやって来ましてね」
 相慶は砂利を敷いた駐車場に一台だけ停められていた自家用車を指さした。あそこにある車で来たんですが、車がエンストを起こしましてね、とりあえず一旦平壌に戻り、修理工場の人間と一緒にここに戻ってくる他ないんですが、どうでしょう、荷室の中で構いませんから、私を乗せて平壌まで連れてってはもらえませんかね?
「俺は元山に向かう」
 運転士Aはそれだけ言い捨て、手前のバスに歩み寄り、出発前の点検を始めた。
 運転士Bは無言のまま、じっと相慶を見つめた。
「カネなら払います」
 運転士はようやく答えた。昨日はこのホテルに泊まったのか?
「もちろんその通りです」
「部屋は何号室だ?」
「四階だったかな。番号は覚えてないな。そんなもんでしょう?」
「あんたの名前は」
「金賛浩、キムチャンホです」相慶は二枚目の公民登録証ー平壌の職業軍人ーを取り出したが、運転士は近寄ってこなかった。
「ホテルに戻り、そんな宿泊者がいたか、本当に確かめてくる」
 回れ右して歩き始めた運転士に、慌てて声をかけようとした相慶の袖をチャンスクは引っ張り、その耳元で囁いた。「一旦退却しましょう」
 
 失礼しました、と詫びながらチャンスクは「夫」の手を取り、自家用車のある場所へと戻っていった。ホテルの建物へと向かいかけていた歩みを止め、運転士はその様子をねっとりと眺め続けている。
「こうしたちゃんとした宿泊施設に限っては」チャンスクは自分たちの会話が第三者に聞かれない位置まで移動したタイミングで、前を向いたまま相慶に自国の事情を説明した。
「こんな時代でも、予約がなければ泊まれない。正式な夫婦であるというお墨付きの、あなたの『職場』の総務から発行された通行許可証つきでね。連れ込み宿なら飛び込みでの泊りも大丈夫だけれど、ここはそうした種の施設ではないし、あの運転士に宿泊確認を本当にさせてしまったら、私たちはかなり危険な状況に追い込まれることになる」
 彼らは誰かの自家用車の真横に到達した。
「運転士、まだ私たちを見てる?」
 相慶は答えた。「ああ、見てる」
「ねえオッパ、この車のボンネットを開けてよ。私たちがこの車でここまで来て、エンストを起こしたことになっている以上、エンジンの様子を確かめるフリぐらいしなさいよ。オッパは昨夜、バスの扉は開けられたでしょ?」
「残念ながら、この車は外からじゃ無理だ」
 相慶は車の下に潜り込んだ。「これぐらいしか誤魔化す方法はない」
 
「お客さんが乗ってくる。どこからどうみても中国人だね」
 十五分後、運転手Aが待機する元山方面へのバスが、まずは三十二人の団体客を吸い込んで、東の方角へと出発した。
 ここでこうしていても何の前進もない。
 相慶は自家用車から這い出し、チャンスクに止める暇も与えず、バス一台がそこに残された場所へと再び走り出した。
 ドライバーズシートで待機していた運転士Bが、咥え煙草のまま車両から降りてくる。
「なあ、しつこいぞ、オマ」彼はその場で倒れ、嘔吐した。
 何が起きたか分らなかったが、何かが起きたことは分った。
 さっきはへらへらと同乗を頼んできた自称平壌の軍人、小僧のような男が、一転して周囲の全てを焼き尽くすような殺気を放ちながら見下ろしてくる。
「もうすぐ客が来るんだろう?入口で吐いている場合じゃないよな」
 そして運転士の脛を蹴った。被害者は苦痛に呻いた。
「もう一度言う。俺たちを荷室でいいから乗せろ。今度は依頼じゃない、命令だ」
 
「ねえ、荷室じゃなくてもよかったんじゃないの」
 低い床は道路の凹凸がまともに伝わってきて、チャンスクの肉の薄い体では骨にまで振動が伝わるようだった。
「中国人観光客に顔を見られる」
「あいつら、食事と女とカラオケのことしか頭にないわよ。隣に誰が座ってたかなんていちいち覚えているもんですか」
「話しかけられたらどうする?」
「繰り返しますけどね、私は中国語も話せます」
「流暢なのはセックスに関する言葉だけじゃなかったか」
「おっさんが私に話しかけてくる際、他の話題は何かある?」
 相慶は闇の中で小さく笑った。君の言う通りだ。
「言葉に不安があるというなら、あんただけ荷室で過ごせば良かったのよ」
「一時間半の我慢だ」
 車両が動き始めた。視界を占めるのは暗黒だけだ。それでも車が高度を下げているのは淀んだ空気にこもり始めた熱が教えてくれた。何度も唾を呑み込み、耳に空気を通そうとするが、昨日の朝から水分も食事も摂っていない。乾いた口から唾はもう出てこなかった。
 道路の舗装状況が良好だった点だけが、彼らの痛みや不快感をいくばくかでも軽減してくれた。いつかこの国に民主的な政権が樹立され、人々が自由に旅行できるようになれば、俺も荷室ではなくバスの客席に座り、コーヒーでも飲みながら、印象的な風景がめまぐるしく展開しているに違いないこの道を再び移動することができる日も来るのだろうか、と相慶は考えた。
 一時間ほどして、バスが止まった。その間全身が痣になりそうなほど、床に何度も打ち据えられた。運転士の意趣返しもそこにはあったような気もしたが、乗せてもらった以上文句は言えなかった。
 荷室の扉が開いて、日の光が飛び込んでくる。一瞬眩暈がした。
 会話しているところを誰にも見られたくない、と言いながら運転士が荷室に乗り込んできた。朝の居丈高な態度はすっかり鳴りをひそめている。
「平壌に着いたのか」
 運転士は首を振った。まだだ。悪いがここで降りてくれ。
 なぜここで?、と相慶が近付くと、相手は怯えたようにその距離だけ下がった。
「観光客は?」
「皆トイレ休憩だ。二人とも見つからないように降りてくれ」
「どういうことか、説明しろよ」
「対向車がパッシングで合図をくれた。平壌は非常線が張られている」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?