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「伊豆海村後日譚」(38)

 マリーナの係船岸に長谷川巡査長の屍を横たえたパク・チョルスは、遺体の顔面を石で殴打した。何度も殴打した。
 トランクにあった工具箱からペンチを取り出し、歯を抜けるだけ抜き、ナイフで指を切り落とす。自分の身を守るための手段というより、既にこうした行為自体が彼の中で目的化しているようだった。
 一時間程度で作業を終え、譲渡された制服を身に纏い、再びパトカーに乗り込む。この六八二号に乗り続けるリスクの高さは充分に承知していたが、遺体の近くに車を放置する訳にも、ここから沼津港まで深夜の街中を数キロ歩く訳にもいかなかった。土地勘はなかったが、町に入れば道案内の看板はいくらでもあった。
 海沿いに車を走らせ、港大橋のたもとにある大型スーパーマーケットの近くにパトカーを停め、車を降りた。そのまま橋を渡り、沼津港までの道をゆっくり歩いた。
 警察官の見本市でも開催しているのかという様相が、そこにはあった。千本港町交差点から港に抜ける道が完全封鎖されていたのは予想通りだったが、彼は近くの警邏を装ってその検問所の様子を眺めた。出入りする警察車輛まで一台ずつ車を止めて、係員は身分証明書の提示を求めていた。六八二号が運転手ごと行方不明、という情報は既に全警官の間で共有されているのだろう。しかし、こうした厳戒態勢が往々にして抱く弱点もある。一旦その中に潜り込めさえすれば、そこでは一転して連帯意識に溢れ、誰もが互いの存在を疑い合うことのないコミューンが展開しているという点だ。
 とにかくこの中に入れさえすれば。
 生前の巡査長が言っていた、管轄が違うという話の真偽を敢えて確かめるつもりもなかった。どの世界にも共通する話だが、表玄関が厳重に鍵をかけられているなら裏口から忍び込めばよい。どの世界にも共通する話だが、裏口に至る道は幾つもある。
 パク・チョルスは千本浜公園へと向かった。制服のままコンビニに立ち寄り、ゴミ袋とタオルとゴーグルを買った。かつてはあらゆる物資に困窮していたこの国だったが、一部のコンビニは夕方六時を過ぎてもシャッターを下ろさず、海の近くとはいえゴーグルまで買える時代になっていた。
 公園内は沼津港に負けず劣らず警官が徘徊していた。
 元少佐は不自然に見えない程度の敬礼を彼らと交わし、回れ右して港への道を五十メートルほど戻り、若山牧水記念館の敷地へと足を踏み入れた。
 
 ***
 
『欲しいものは何でも揃うコンビニエンスストア』の二階客室は、この店の四十余年に渡る歴史の中で最も騒がしい夜を迎えていた。静岡県警の四人の捜査員たちは、突然部屋に乱入してきた女の美貌にまず心奪われ、彼女の告白、続く提案に腰を抜かした。薄い壁越しに彼らの会話を聞いていた船戸は、不謹慎と思いつつも笑いを堪えることができなかった。
 三留さん、あなたの娘さんはとんでもなくパワフルな女性に成長してしまいましたよ。
 居丈高な自首の後も、彼女の声は続いていた。
「何なら下に転がってる死体の弾道と私の部屋にあるウジを照合してちょうだい。私の指紋がべたべたついてるウジと」
「ちょっと待ってくださいお嬢さん。ウジ、ですか?」
「イスラエル製の軽機関銃の名前ぐらい、警察官なら覚えておきなさいよ」
「いや、私も知らない訳ではない。念の為にお伺いしたまでで」
 船戸はその十分後、香と並んで沼津に向かうパトカーの後部座席に座っていた。道中、彼女は先程の提案から若干変更を加えた司法取引を助手席の男に改めて持ちかけ、その取引に従い気を失った旅人は沼津警察署の近くにあった病院で緊急手術を施された。

 香はそのまま警察署の建物に入り、真っ直ぐ署長室に通された。
 そこで彼女を待っていた五十代の男は、他人に命令することに慣れた雰囲気を全身から醸し出していた。
「県警本部長の吉岡です」
 三留香は一目でこの男に反感を抱いたが、選り好みを言っていられる状況でもなかった。「三留香です」
「今日、正確には昨日の出来事を、全て私にもう一度話してください」
「伊豆海村で、捜査員の方々に洗いざらい自白しましたが」
「聞いています。あなたの口から直接お伺いしたいのです。あらかじめ申し添えておきますが、警察の取り調べというのはそれはもうねちっこいものです。あなたはこれから毎日のように同じ質問を受け、同じ話を繰り返しさせられることになる。これがその第一回目だと思ってください」
「あなた方は私の出した条件、彼をまず眼科に連れて行くという約束を守ってくれました。私も何も隠すつもりはありません」
 そして彼女はこの十五時間以上に渡る出来事を時系列的に全て話した。沼津駅で木炭バスに乗り込んだ時から、殺人を共に犯した男と肌を重ね合ったその夜までの出来事全てを。
 吉岡はその間一言も口を差し挟まなかった。こういう芸当は女にはできない、と香は反抗心はそのままに、内心舌を巻いていた。
「あなたが我々に協力を申し出たのは、伊豆海村の別荘から姿を消したパク・チョルスの最新の人着や声を知る人間は、今まさにその別荘で保護されている人質だった方々を除けば少なくとも県内に自分しかいないから、とそういうことですね?」
「そうです。ニュースの顔写真とは全く別人ですし、現にあなた方は今朝、奴とその一味が堂々と沼津市内から脱出するのを許しています」
 香の言葉に、吉岡は苦々しく頷いた。
「誠に遺憾ですが、あなたが草履のご自宅で隣の部屋から聞かれていたという我々の無線内容は事実です。我々がパク・チョルスを取り逃がし、どうやら一名の愚かな警官がその逃亡に一役買っているらしい、というのも残念ながら現時点における最も蓋然性の高い進行中のシナリオです。しかし、ここで何もかも話す訳にはいきませんが、その包囲網は確実に狭まっております。県警のメンツをかけて、奴の身柄は今晩中に確保します」
「彼は何としてでも沼津港に向かいます。人質だった私に、そう説明したのですから」
「三留さん、奴は満海に帰ろうとしているだけとは限りませんよ。国内の他の場所への潜伏を目論んでいる場合もある」
「それはないでしょう」香は断言した。
「彼とその一味には昨日から、別の離れた場所への逃亡のチャンスがありました。それなのに何故伊豆海村に留まろうとしたのか、理由は一つしかないでしょう」
「本気で彼らは沼津港からの渡航が可能だと考えていたとお思いですか」
「その時は、恐らく。でも今はパク・チョルスしか生き残っていません。彼自身は既に祖国への帰還を現実のものとして捉えてはいないと思います」
 そうか、私はそんな風に考えているのか。思索よりも言葉が先に生じる状態を客観視しながら、彼女は話し続けた。
「国内にはもう帰る場所はない。警察に追われヤクザ組織に追われ、どのみち破滅は時間の問題です。そんなことは彼自身よく分かっている。後は意地と自尊心だけです。今朝九時の時点で生きて船の上に立っていれば、それで彼の勝ちなのです。その後のことは何も考えていないでしょう」
 本部長はじっと彼女の話を聞いていた。その時、彼の胸ポケットの携帯が鳴った。
「失礼」
 携帯を耳に当てる吉岡の眉間の皺が、マリアナ海溝並みに深くなる。電話を切った後、彼は告げた。ご同行願います。
「いつも警察というのは、指図ばかりで理由は話してくれないんですね」
 本部長はようやく破顔した。いつもこうして笑っていればこの人にも愛嬌が出てくるのに、と香は胸の中で呟く。
「時間がない。車の中で話しますよ」
 
 ***
 
 若山牧水記念館の裏口に出た。沼津港へと続く海岸沿いの遊歩道。
 一抹の期待を抱いて遊歩道に出た元少佐は、その先にも検問が敷かれ、赤色灯が国家権力の威信を示すかのようにくるくると赤い光を闇に撒き散らしているのを苦い思いで見つめた。正面玄関に比べれば圧倒的に人員は少ないものの、それでも検問所の周囲に人の姿が確認できた。
 最後の手段だ。
 彼は浜辺に降り、港とは反対方向、富士市方面へと歩いた。その時間の浜辺には警官も釣り人もジョガーもいない。赤色灯の照らす範囲を外れたと判断した男は、服を脱いでポリ袋に入れ、ゴーグルをかけて海へと入った。五月の駿河湾は水も冷たい。しかし満海人民軍時代、流氷浮かぶ海を泳いだ経験は何度もあった。脳の保護を目的として頭部の毛細血管が急速に拡張し、首より上が気味悪いほどに温められ、一方で手足の先が海水温と同じレベルにまで冷えていき、やがてコントロールを失っていった。意識は鮮明なのに身体が動かず、零度の水を何度も飲み込みんだ、命懸けの訓練。あの体験に比べれば今は温泉に浸かるようなものだ。
 時間はまだ充分にある、焦る必要はない。パク・チョルスは自分にそう言い聞かせながら潜水し、岸から八十メートルほど沖に出た所で海面に浮かんだ。背泳ぎの姿勢を取り、しばらくラッコのように波間を漂った。
 体が水温に慣れ、これから自分がしようとしていることを全身の神経に自覚させた後、港へと向かってゆっくりと泳ぎ始める。夜の海は方向感覚を失いやすいが、警察の放つ光が彼を助け、海軍時代の経験が彼を後押しした。ちょうど潮の流れが東向きだったことも幸いし、二十分ほどで港を覆うフェンスのたもとに到着した。
 岸から発見されることを避けるため、外海に面したテトラポットまで移動し、そこから静かに上陸する。テトラポットの作る空洞の中に入って風を避け、ポリ袋から制服を取り出し素早く着衣した。冷えた海水は体力を相当に奪い取っていた。
 呼吸と体温が戻るまで、少し休もう。
 陰になった箇所に全身を横たえ、たっぷり十五分、足の先から手の先まで全ての筋肉の緊張を緩めた。コンクリートに腹の底が溶けていくような感覚を味わうまで力を抜き続け、口を開いて眼を閉じ、顔の筋肉をも休ませ、眉間が固く強張っていることに、その時ようやく気付いた。
 深呼吸は避けた。横隔膜にさえ負担をかけてはならない。小便を漏らしそうになる位まで全身を脱力させるのだ。
 十五分後、男は立ち上がった。体の強張りと疲労は少なからず抜けていた。テトラポットの頂上からでも、港の外壁はたっぷり二メートル半の高さでそそり立っている。外壁の上は通路になっていて、下から登るにはそこがオーバーハングの箇所となり、登攀を更に困難なものにしている。
 パク・チョルスは再び横たわり、一時間近く待った。
 ようやく一人の警官が、懐中電灯を握りながら通路を歩いてくる。
「おい」
 塀の下からいきなり声をかけられた警官は、思わずひいっと声を出し、懐中電灯を落とし損ねて何とかそこで踏み止まった。
「何をしている」
 威厳を取り戻すかのように、彼は体勢を整え、声の主へ尋ねた。
「ここに人がいるんだ。動かないが息はまだあるようだ」
 塀の上の警官は無線機に手を伸ばした。パク・チョルスは短く叫んだ。「やめろ!」
 警官は動きを止めた。
「まずこいつの身元を一緒に確認しよう。ビンゴだったら表彰もんだ」
 今しがた見せた醜態の後ろめたさもあって、警官は素直に応じた。
「懐中電灯があるだろう、おまえも降りてこい」
 警官は縄橋子を塀の鎖に掛け、そこから伝ってテトラポットまで下がってきた。
「男か?」
「よく分からんが、多分そうだ」
 近づく警官にパク・チョルスは躍り掛かり、警官は頸椎を折った。
 下着姿にした遺体を無造作にテトラポットの隙間に投げ捨てた元少佐は、警官の遺品となる制服に着替え、IDカードを付け、懐中電灯を持ち、彼の遺品となる縄梯子を伝って、難なく通路へと移動した。そのまま外壁沿いに端まで歩き、階段を下りる。
 ついにチョルスは沼津港の敷地内に入った。予想通り擦れ違う警官は、誰一人として彼に胡乱な目線を送ってはこなかった。
 水産会社の倉庫を抜け、沼津我入道漁協外港冷蔵庫と書かれた巨大な建物の脇を通った。クレーンの下ではいくつもの鉄屑が小山のように積み上げられている。
 男は真っ直ぐ「約束の地」へと歩みを進める。
 三留香の見立て通り、パク・チョルスは自分が生きてこの国を脱出できるとはもはや信じていなかった。
 俺が警官に発砲しなければ、ジョンヒョンもガンスもヨンナムも、少なくとも死ぬことはなかったはずだ。俺だけが生き続ける理由はない。では何故俺は今ここにいるのか。「いいすとしいびいなす丸」に乗船できたとして、その船の中で待っているのはどういった連中なのか、誰にだって想像はつく。
 それは理屈ではない。そこに山があるから登ると言ったマロリーと同じだ。故郷への船があるから、俺はそこに向かうだけだ。
 
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