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「平壌へ至る道」(26)

 部屋に入り、扉を閉める。売春宿の部屋にまで金日成・正日親子の肖像画が掲げられているのに失笑しつつ、相慶は十ドル札を取り出した。
「相場が分からないから、これだけ渡しておく」
 女は十ドル札にも、目の前のチョッパリの口から突如として発せられた流暢な朝鮮語にも動じなかった。
「挨拶抜きでお願いする。早ければ明日、遅くても明後日、俺はこの町を脱け平壌に向かう。地域事情をよく知らない俺のガイドとしての役割も兼ねて、君に偽装妻としてついてきてもらいたい」
 女の表情に依然として変化はない。
「今君が騒げば、俺は明日には処刑場だろう。君は日本からの反動分子を一人摘発した民族的英雄になれるかも知れないし、以前の階層に戻れるかも知れないが、その判断は君に任せる」
 娼婦は深く息を吐いた。「何のため平壌へ?」
 男は答えた。「万寿台の金日成像に落書きをしてやるために」
「そんな自殺行為に私を付き合わせるの?」
「落書きは俺が単独で行い、その後中国まで脱出するが、俺が捕まれば君だけでも逃げられるよう手筈は追って伝えてやれる。あくまでも君がこの国から離れたい意向なら、だが」
「なぜ私なの?」
「君の噂は日本でも聞いている。君が反体制派であるという推測に賭けた」
 ソラは立ち上がり、相慶を押しのけながら扉へと向かい、それをそっと開き、首を左右に振る。
 そして振り返った。「明日、同じ時間にここに来て。それまでに自分の意志を決めておく。ただ私、これでもこの店の稼ぎ頭だから、仮に同行するなら足抜け代は置いていかないと」
「いくらだ」
「千ドル」
 そんなに安いのか、という言葉を呑み込み、相慶は最後の質問を試みた。
「君がついてこない場合でも、俺がここから脱出できる裏道はあるか?」
 ソラは答えた。当然よ。
「この商売がこの国でどういう位置づけにあるか、知ってるでしょ?」
「分かった。では明日」
 工作員は部屋を出た。入ってからちょうど四分が経過していた。
 管理人室の扉をノックする。顔を出した女将は同情的な顔を向けてきた。
「体制側ではないようだとソラには言ってやったのにね。気の毒だけど無料という訳にはいかない」
 客人は商売人の手に五ドル札を握らせた。
「諦めきれないので明日も同じ時間に来る。店で安全部の奴らが俺を待ち構えてないことを祈ってるよ」
 女将は五ドル札をひらひらと舞わせた。
「私みたいな女がこの国で生き残る一つの鉄則はね、見ざる言わざる聞かざる、よ。余計なことはしない」
 そして相慶の肩を叩く。無事日本に帰ったら、朴さんに宜しく伝えといて。半島が統一されたらまた遊びに来なさい、とも。
 外に出る。
 玄関の五メートルほど先にある門に横付けされていた軍のトラックの向こうにはジャンマダンの喧騒が伺えたが、いち早く近づいてきた通訳の手によって、相慶の視界は再び奪われた。
「随分早いお帰りで」薄笑いの声に軽蔑が滲んでいる。
「断られた。軍の仲間でチョッパリなど論外だと」
 崔は馴れ馴れしく肩を叩いてきた。気を落とさないでください。そして朝鮮語に切り替える。「白特務上士、俺の勝ちだ、後で煙草三本な!」

 再びトラックに乗り、再び降りた目の前に、この白黒の町にあって薄いグリーンの外壁の、比較的新しい建物が目の前にあった。
「張中尉が、同務を歓迎する昼食の席を設けております」
 相慶は周囲を見渡す。「ここはどこですか」
「東名旅館。町一番のホテルです」
 ホテルのロビーからは軍港が見渡せた。一等地なのだろう。動かないエスカレーターを階段代わりに、二階のレストランまで歩いた。中で張中尉が待っていた。
「朝鮮人民軍の幹部が日本人と食事をしているのが誰かに見つかれば、後々粛清の対象になりませんか」
「あなたはいろいろと誤解しておられる」崔は大袈裟に両手を広げた。
「我が国に粛清などという前近代的な習慣はありません。西側が捏造した情報です」
 席に近づく相慶に、中尉は『歓迎』とは程遠い笑みをゼロコンマ数秒の間披露し、崔には早口で尋ねた。どうだった?
「要求と口数の多いチョッパリでしたが、安の手下であるのは間違いありません。ソラのことも知らされていたようです。見事に断られ、十分足らずで出てきました。いい気味ですよ」
 予想と寸分違わぬ会話に、相慶は窓の外の軍用船を眺めて笑顔を隠したが、そのあまりの錆び具合に、そちらでも笑いをこらえるのに苦労した。
 安というのは安田の帰化前の苗字だ。「ヤスダ」と発音することで俺の耳にその単語がかすらないようにしたのだろう、ご苦労なことだ。
 だが次の会話が、相慶の緩んだ頬を凍らせた。
「保衛部が伝えてきた男ではないのか?」
 相慶は無意識のうちに上げそうになった目線を意志の力で押し止めた。通訳はその様子を察した風ではなかった。「違うでしょう」
「だがこのフィンモリ野郎は、やはり僑胞に見える」
 個々の栄養状態が壊滅的な共和国にあって、フィンモリ―白髪-の人民は珍しい存在ではないが、朝鮮半島では伝統的に白髪は弱々しさの象徴として敬遠され、社会的上位層の者にとって髪染めは生活必需品の一つだ。三十歳と紹介された富める国からやってきた男が、白く色落ちした髪をそのままにしておくというのは、朝鮮人民軍役職者の価値観に照らし合わせれば不可思議極まりないことだった。
「今時の僑胞は完全にチョッパリに魂を売ったような背信者です。このガキがもしそうなら、寧ろいかにも日本の若者のような容姿でいるでしょう」
「すみません」相慶は話の腰を折った。私にも分かるよう、日本語に訳してもらえませんか。
 崔は答えた。なかなか晴れないな、と喋っていただけですよ。
「失礼ながら天気の話のようには聞こえませんでした。何かありましたか」
 通訳は上司にそのまま翻訳し伝えた。中尉は答えた。答えてやれ。
「しかし、張中尉」
「では俺から話す」
 中尉は相慶に向き直り、朝鮮語のまま話しかけてきた。
「オマエの国のスリーパーから珍しく報告があった。二十代後半の在日朝鮮人もしくは脱北者の男二人が、我が国の経済特区である羅津、先峰で破壊工作を企図している可能性がある、と。時期と確度は不明、仮に非合法手段による領土侵入なら地理的に中国の延吉から豆満江を超えてくるルートが最も妥当性が高いだろうとのことだが、この町とて日本に近い港町、用心だけはしろとの指令だ。無能揃いの僑胞どもが送ってくる情報なんて、その程度のものだ」
 何言ってるか分からないが相槌だけは打っておきます、と場違いなタイミングで首を縦に振り続けながら、相慶は己に言い聞かせていた。
 伊勢さんだ。
 彼が「安根拳」門下生と推測される者から二度目の身柄拘束を受け、咄嗟に北東部経済特区への工作計画をでっち上げたことは共有情報として知らされている。
 最後に皆で会った時、俺たちは見張られていたのだ。
 二人、というのは俺とソウル在住のエリート鉄道員、李昌徳を指しているのだろう。
 続けて通訳が口にした日本語は、意外にも中尉の説明を忠実に訳していた。
 
 大根のキムチ、テグタンと呼ばれる鱈のスープ、朝鮮の香辛料であるヤンニョムにワタリガニの身をひたしたケジャン、小魚をまぶしたチヂミ。港町に相応しく、テーブルには海鮮物が並んだ。
「たくさん召し上がるのが良いでしょう」
 そう勧めてくる通訳自身、親の仇を噛み砕くが如く目の前の料理にがっついていた。彼にとっても腹を満たせるだけの食事の機会は貴重なものなのだろう。
 昼食を終え、その崔が半ば命令のように提案してきた。
「同務は昨夜、眠っておられない。朝に案内した建物二階にある宿直部屋で午後はお休みください。外に歩兵を立たせておきますので安心です」
 今日はもうじっとしていろ、脱出を試みれば見張り役は躊躇なく発砲するぞ、という意味なのだろう。
 
 食事を終え、東名飯店を出る。
 トラックは姿を消し、カローラに似た中国製の大衆車が待機していた。運転席のドア横で、白特務上士とは違う若い兵士が直立不動の体勢を取っている。崔が助手席に、相慶は張中尉と並んで後部座席に腰をおろす。
 ようやく元山の町並みを眺める機会が授けられたが、車は意図的に賑やかな通りを走っているようだった。それでも町の人通りは大阪に比べれば極度に少なく、自転車に至っては一台も見かけなかった。
 李昌徳から、村落間の相互情報伝達を防ぐため、この国では地方での自転車売買が厳しく制限されていると聞いている。
 九十年代、この国の後ろ盾だったソビエト連邦が突出する軍事費を抑えるべくグラスノスチと呼ばれる情報公開と改革開放政策、西側諸国とのデタントを開始し、それでも傾いた財政を立て直すこと能わず崩壊したその期間、北朝鮮には充分な精製石油が供給されず、ただでさえ人口比で見れば圧倒的に数少ない自動車の多くが鉄屑と化していく過程で、少しずつ自転車も市場に回るようになったが、中国製の中古ですら五万ウォンはする。
 北朝鮮の通貨、人民ウォンは国際的には無価値に等しいが、それでも敢えて換算すれば当時、一円は約二十五ウォンと推定された。従って中古自転車は日本円で二千円ほど。全ての人民が偉大なる首領様の溢れんばかりの慈悲により充分な食糧と生活環境が提供されており、私財の所持は意味を成さないという理屈で労働者の平均月給が二千五百から三千ウォン、実に百円程度にしかならないこの地上の楽園で、新品の自転車は日本の感覚で言えば新車のクラウンぐらいの価値を持つ。
 通過した公園に、金日成の銅像が見えた。
 万寿台にある像の規模には劣るものの、優に十メートルはあった。右手に双眼鏡を持ち、左手を腰に置いて前方を見据える指導者は、さて次は誰をいじめてやろうか、誰を粛清してやろうかと思い巡らせているように見える。
「若き日の将軍です」崔が前から声をかけてきた。
「朝鮮が日帝―失礼、日本から解放された一九四五年、六十万人もの抗日パルチザンを率いていた将軍閣下が、万雷の拍手を受けてソ連の軍艦、プガチョフ号に乗って凱旋帰国し、最初に我らが大地に足を踏み入れたのが、ここ元山港なのですよ」
 半島北部で抗日活動を指揮していたはずの金日成が、なぜソ連の船に乗って帰ってきたのかという決定的な疑問を口にしない分別ぐらいはある。
「あれは赤銅製ですよね」とだけ相慶は尋ねた。「なぜ屋外にあるのに錆びないのですか」
「我が軍の兵士が、毎晩足場を組んで磨きます」
 朴泰平から聞いた話は本当だった。
「大変な作業ですね」
「何が大変ですか。将軍様が我々にお与えくださった幸福に比べれば、兵士の恩返しなど小さな出来事です」
「崔さん、中尉は日本語を理解しないんでしょう?本音で話してくださいよ。私だって朝鮮語は分からない。あなたの率直な意見を誰かに告げ口なんてしませんし、できませんから」
 どういう意味でしょうか。簡単にムキになる通訳の口調に、確かに議長たちの分析通り、朝鮮人民軍は決して機械のように統制された連中ではないことが察せられた。
「銅像磨きやマスゲームに動員される時間に人々が田畑を耕していれば、今頃この国は小麦の輸出までできていたかも知れない。これは挑発でもなければ揶揄でもない。私は真剣にこの国の方向性を憂いています」
 崔は相慶から視線を外し、その隣で黙したままの張中尉に、今の会話を訳して伝えた。
「このフィンモリ野郎は、偉大なる首領の銅像を我々人民が心からの奉仕の精神をもって建立当時のままの状態を保たせていることに、深い感銘を受けたと申しております」
 本当にこの中尉は日本語を解さない、とそこでようやく相慶は納得した。
 車は十分後、軍の建物に到着した。
「では、ゆっくりお休みください。夕食は六時ごろ部屋に運ばせます」
 崔は硬い口調で告げ、張中尉はろくに別れの挨拶もなく事務室へと姿を消した。
 一切口を利かない若い兵士-朝は姿がなかったが、銅像磨きの夜勤明けだったのだろうか―に先導され、二階へと上る。
 彼は緑色に塗られた粗末な木のドアを指差した。
 相慶は扉を開いた。ドアノブの穴を示して鍵をくれ、という意思を伝えようとして、やめた。どのみちこの小僧が鍵代わりだ。
 幅二メートル、奥行き三メートル程度の小さな部屋の窓は鉄格子がはめられ、まさに独房を思わせた。木のベッドに腰かけ、例によって対面の壁に掛けられた独裁者親子の肖像画を眺める。
 ペンキの剥げた、もはや何色と形容してよいか分からない壁に背中をもたれる気にもなれず、相慶はそのままベッドに横たわった。
 耳の奥が鳴っている。極度の緊張状態にある心身がアドレナリンの分泌を亢進させていたのだろう。
 半ば夢の中、半ば覚醒中という混濁した意識の中で、出発前に交わした議長との会話が蘇ってきた。

「安田の話では」
 日本出発の前夜、港町まで工作員に会いに議長は、そう口火を切った。
「向こうの卸し元は朝鮮人民軍の一部隊だ。クスリの商売と聞いてアウトローな奴らだろうと俺も決めつけていたし、枠から外れた連中ならカネ次第で便宜も図ってくれるものと期待していたが、相手が軍ならそうした融通は期待できない」
 相慶も既にそのことは安田から聞いていた。
「不法商売というレッテルはこちらの価値観によるものやで、議長。向こうにしてみれば成功した国策産業や。日本円をぶんどって、憎き日本人をどんどん廃人化させる、首領様大喜びのビジネスモデルや」
 プロジェクトリーダーは同意した。言われてみればその通りだな。
「最初は向こうでの一週間程度の宿泊と各種偽身分証の提供、あわよくば平壌までの輸送まで頼めるかと皮算用していたが、安田が君を組幹部の視察名目で送り、それでも現地で二泊、というのが相手側の提供するサービスの上限だ。君の持参金を独占するため日本からの客人受け入れを平壌に報告はしていないだろうから、とにかく工場を形式的にさっと見せて、美味いもん食わせて速やかにお帰り頂きたい、というのが本音だろう」
「すると俺は、実質二日の間に平壌へ移動して金日成像に落書きし、何食わぬ顔して元山に戻ってくるってことか」
「安全部や保衛部の連中を一人も引き連れずに、という条件も加わる」
 相慶は呆れたように頭を振った。
「あんたも議長などと大仰に呼ばれているのなら、それ相応のアイデア出してくれ。目覚めたら平壌の万寿台にいました、みたいな案はないんか?」
「今のところ、三つの方法がある。一つ目。向こうに着いてから相手側にストレートに頼んでみる。二日目は平壌に日帰り旅行に行きたい、ついてはアレンジしてもらえないだろうか、とね。袖の下の資金として、君には三万ドル預けておく」
「それ持って俺がトンズラするとは考えへんのか」
「君はそんなに安い男ではないはずだ」
「議長は意外と簡単に他人を信用するんやな。二つ目は?」
「静かに元山で過ごし、大人しく帰る。滞在三日目の夜、もう一度日本海上の合流地点で、前回と同じ時刻に安田が迎えの船を仕向けることになっている。その間に君があの港町の金日成像のどれかに髭を描いてこられれば痛快だが、難しいようならそれはそれで構わない。君が生きて日本に帰ってくることが第一だ」
「ただ元山観光してきました、というだけの話やん」
「最後の案が、元山滞在最終日までに脱出し、尾行をまいて西へと、平壌へと向かうものだ」
「平壌で仕事を終えたら安州に移動し、そこから李昌徳の手配する貨物列車で中国に越境すればええんやな」
「そういうことだ。しかし君が姿を消せば、元山の人民軍の怒りの矛先は、そんなトラブルメーカーを送りつけてきた安田へと向けられること必至だ。今後ヤスダ興産がビジネスの柱を失うことにもなりかねない。覚醒剤を日本国内に持ち込むヤクザ組織なんて潰れても構わないが、道義的に夢見が悪い。君が姿を消した時に備えて、こちらも君に関するサイドストーリーは用意しておく」
「暴力団相手に道義もクソもあるかいな。それでいこう」
「取り敢えず現地で偽装妻にできそうな女の候補が一人いる」
 そこで議長と相慶は、朝鮮語で『スモモ』を意味する売春宿の、ソラという源氏名の女について情報授受を行った。
「これは無理だと思ったら、元山から船で帰ってこい。鄭相慶をもってしてもどうにもならない事態であるなら、誰を送り込んでも状況は変わらない。こんなハイリスクローリターンな素人計画にここまで付き合ってくれたことに感謝する」
 議長の言葉に若者は頬を膨らませた。既に諦めたような口ぶりやな。

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