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毎年海に浮かぶこと

私は毎年夏、海に浮かぶ。

場所はどこでもいい。海はどこでもつながっている。

浮かんで空を見上げる。耳は水の中。海水に身を任せて浮かんでいると、あたたかくやさしくて、そしてちょっと怖いものに包まれているような気持ちになる。この時、私は母と対話する。


私の母の遺骨は半分は父方先祖代々のお墓に、もう半分は海に散骨した。本当は全部散骨したかったのだが、今の日本の法律だと一部でもお墓に入れないといけないらしい。あとは、父が自分が墓に入ったときに、母がいないのは嫌だと言い張った。そんなわけで骨を半分に分けて、納骨と散骨をしたが、散骨の割合をこっそり多くしたのを覚えている。

「母はできれば骨は海にまいて欲しいと言っていた」と弟と妹が母の死後、強く主張した。お坊さんは家族の話をよく聞いてくれ、半分ずつ納めることを提案した。散骨の際に、一緒に持って行ったらいいという、お経のようなものが書いてあるたくさんの細い紙も持たせてくれた。戒名もにも海がついていて、説法でも「生前海をこよなく愛した光子さん。。。」と説いてくれた。

しかし、私は母が海にそんなに思い入れがあったとは思っていない。海に散骨してほしいということも本人からは直接聞いていないので、実は、そうなの?と思った。毎年家族旅行で夏には千葉の海へ海水浴に行っていたが、あんまり彼女が海に浸かっていた覚えもない。泳ぐのが苦手で、顔をつけない平泳ぎみたいなことしかしなかった。暗くて雰囲気あるところは大嫌いだし、一人でいることも嫌い、できるだけ家族と一緒にいたいと思う人だったと捉えている。ただ、誰も知らないご先祖しかいない父方のお墓に入るのは嫌だということは、看病中によく聞かされた。墓に入るくらいなら海でも山でも撒いてくれるのでいいからという意味だったのではないかと思う。本人がいないと、なんとなく話は美化されるものなのかもしれない。でも、ひとつ思い出すのは病室の窓からとんびが見えると、「とんびはいいなあ、お母さんとんびになりたい」と言っていたこと。治療のためにの入院していた高知県土佐清水市の夏はカラッと暑くて、海が近くてとんびがよく空を回遊してはヒューイと鳴いていた。思いもよらず動けなくなってしまった母はまだ、もっと自由に飛びまわりたかったのは確かだ。

そんなとんびに私たちは導かれることになる。

散骨はどこへ。やはり家族の思い出がある、千葉の海だろうということにすぐに決まった。久しぶりの千葉の海、浜辺は思い出よりも小さくこじんまりと見えた。父と弟と妹と、思い出をポロポロ話しながら、どこで散骨したらいいのかなあと考えていた。この浜辺は海水浴場だから、人もいるし、散骨のような言ってみれば人骨を葬るような儀式は取り行えないだろう。もうちょっと車で走るとすごく波の高い浜があって、そこもよく遊びに行ったしどうかな、と車で走ってみることにした。少し走ると小さな岬に小さな灯台が見えた。行ったことはない場所だが、私たちはなんとなく車を止めて、どういうわけか魅かれるように岬に向かって歩いた。とんびが空でヒューイと鳴いた。見上げるととんびが1羽、空をゆっくりと回っている。小さな灯台にたどり着くと、その横に「関係者以外立入禁止」の黒い鉄格子の扉があった。そして扉は少し開いていた。とんびはその中へと飛んでいく。「私たちは関係者だろ」と父お得意の持論で、当然のように立入禁止の扉をくぐるとそこは岩場の海で、さっきまでとは別の場所のように静かで、蝉の声と波の音だけが遠くで響いていた。導かれるように更に奥へと進むと、墓石のような岩場に先ほどのとんびと、2匹のうつぼの死骸が、なんだかここが祭壇とでも言わんばかりに待ち構えていた。海水は透き通っていて、岩場は底までよく見えた。ここだねと誰もが思う。立ち入り禁止のため、誰もいない。お坊さんにもらった細い紙と一緒に線香を炊いて、母の骨を海にまいた。その美しかったこと。キラキラと光って、透き通った海水の中へ、波に漂うもの、底へと沈んでいくもの、波が打ち寄せるたびに、しばらく輝き続けて、やがて海そのものになった。こんな風に海の一部になれるのなら、私もそうなりたいなあと思う。とんびはその後も私たちの上をぐるぐると回っていた。魔法のようなひとときだった。

それから、毎年夏になると思う。ある時は伊豆大島の海、ある時はノルウェーのフィヨルド海岸、沖縄、五島列島、瀬戸内、四国、東京湾、鳥取に糸魚川の日本海・・・あのとき以来、千葉の海へは行っていないけれど、海は繋がってるなあって。だからどこにいても母に会うことができる。いろんな話をしてみたり、声を聞いてみたり、ただ浮かんで肌で感じてみたり、その年によっていろいろで、その度に、ああ今年もまた母を詣でることができたなって思うのだ。

高知の夏、夜は母のベッドに一緒に横になって、トレンディドラマを見た。普段テレビを見ない私だが、あの時は番組が楽しみで、特に話したりするわけでもないけどいい時間で、今でもよく思い出す。母の誕生日は8/16で、父の誕生日は8/14。どちらの誕生日プレゼントも私が選んで買ってきて、お互いに高知の病院で贈り合った。父に何を贈ったかさっぱり覚えていないけれど、母には、父からは誕生ストーンのアクセサリー、私からは髪飾りを贈った。こんなに高価なものつける機会もないからいらないのにって言われたけど、元気になったらつければいいじゃんって言った気がする。やっぱり最後までつける気力が出ることはなく、一緒にお棺に入れた。今頃つけてたりするかな、母のことだから、もったいないとかいってまだ新品かもしれない。

今年は海に浮かんでみたら、波が強くて笑っちゃった。でもゆっくりと、変わらず海はゆったりと動いて私を包んだ。変わらないものはいつでもそこにあるから、波が強くても惑わされずに、ね。もうしばらく母のことを思い出して過ごすんだろうな。今年はとりわけ、その時間があるように思う。9/15の命日くらいまで。私のお盆だ。

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