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一週遅れの映画評:『妖怪大戦争 ガーディアンズ』冷めるぐらいなら、秘密のままで。

 なるべく毎週火曜日に映画を観て、一週間寝かしてツイキャスで喋る。
 その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。

 今回は『妖怪大戦争 ガーディアンズ』です。

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 確か2005年の『妖怪大戦争』も見てるはずなんだけど、全然覚えてなくて。折角だから見返そうと思ったら、配信で無くてさー、流石にDVD買うのもアレだなぁ……って悩んでるうちに月曜ですよ、はい。見たのは伊集院がぬりかべの役で出てたからで、セリフが「ぬりかべ、ぬりかべ」っていうwん?あれ?そっちは実写『ゲゲゲの鬼太郎』か、ウェンツ瑛士が鬼太郎やってたヤツ。
 
 それはいいとして『妖怪大戦争 ガーディアンズ』ですけど、なんというか「それなりに良い」って感じでしたね。あのね、ちゃんと面白いし、すごいカッコいいシーンもあるし、いい感じにギャグも入ってるしで、安心して観れる作品ではあるんですよ。ただなんていうんだろうなぁ、丸い、っていうか。突き抜けて「ここ!」って部分があ~んま無いんですよ。違うのよ、全体を通して明らかにアベレージ高いというか、ずっと「おぉちゃんと面白い」から満足はしてるんだけど、じゃあプレゼンしてみて?って言われたら困る感じ……。
 加えて今年はめちゃくちゃ評判の良い『クレヨンしんちゃん』映画と『おしりたんてい』が同じ週に封切りだったから、その点で苦戦を強いられているような気がするんだよねぇ。
 
 それでもやっぱ良いシーンはあるんですよ。特に最序盤。主人公が色々な妖怪と出会う場面なんですけど、ここの妖怪がマジで怖いの。寝てるベッドからいきなり手が伸びてきて、それが主人公の顔を撫でまわしたりとか。すげぇ薄気味の悪いババアが馬乗りになって「これ着けてぇこれ着けてぇ」つって執拗に目のところに枯葉おしつけてきたりとか。普通にJホラー映画でやられてもちゃんとハマりそうな感じだったり。
 そのあとも次々に色んな妖怪と対面していくんだけど、それが本当に怖い演出をしていて、それが「妖怪モノ」作品としての強度をめちゃくちゃに上げてて良いし、ほぼ冒頭にそういうシーンが描かれることで作品に対する信頼感が生まれるからすごく安心して見れるのよ。
 
 そうやって出会う妖怪たちなんだけど、誰も自分がなんの妖怪かって名乗らないの。中盤くらいに「人間に名付けられると、妖怪はその力を失う」って設定が語られるんですけど、シナリオ上でそうやって力を失う妖怪以外は本当に名前が無い。見てる私たちとして「あ、ぬらりひょんだ」とか、ろくろ首だ、小豆洗いだ、って当然わかるんだけど、作中では一切そういった名前は出てこない。
 終盤であの伝説的特撮『大魔神』の大魔神が出てくるんだけど、それもひたすら「武神さま」って呼ばれるだけなのね。そういった部分の徹底っぷりがちゃんと決まっていて良いんだけど、更にいいのがエンドロール。エンドロールではきちんと妖怪名が開示されるのね。
 これって冒頭の演出がちゃんと怖いことと繋がっていて、妖怪は怖いものですよ→名前を知られると弱体化するよ→作中では秘匿される→けど映画の終わりには名前が出る→もう怖くないからね。そういう話だと思うんですよ。怖い気持ちを映画の外側まで持っていかせない、「作品」というパッケージでいかに完了させるか?みたいな、フィクションとしての誠実さがあって、すごく良い。前にも『ファントミ』劇場版の話(一週遅れの映画評:『劇場版 ひみつ×戦士 ファントミラージュ!~映画になってちょーだいします~』それでも奇跡を信じるなら。)で言ったけど、「三池崇マジで子供を”映画”好きにさせたいんだな」って感がビンビンに伝わってくる。
 
 それと一緒にきちんと子供を連れてくる親の世代にもリーチしていて、途中で重要なアイテムとして「ガラケー」が出てくるんですよ。もう役目を失って捨てられてたものとして。携帯電話ってまぁ画期的だったわけじゃない、特に『妖怪大戦争』に子供を連れてくる親の世代にとっては一気にコミュニケーションの形が変わっていくその時代を体験しているわけで。
 で、その捨てられたガラケーは「孤独」の象徴なんですよ。役目を失った接続が切られたコミュニケーションツールなわけだから。それでもまだ新しいガジェットだから付喪神、「古い道具が妖怪になる」が成立するほどでもない。けれども人々の意識を確実に変容させた神性みたいのは宿っている。だから同じ「孤独」を抱えてる者にだけ、特別な力を発揮するのね。
 具体的には「そいつが耳を傾けたときだけ、真実を教えてくれる」道具になってるんだけど、持ち主が「天邪鬼」だからその効果が嘘かホントかも信用できないし、もし本当だったとしてもその「真実」が天邪鬼から伝えられるっていう二重の不明さを持っているから、そのチート級の能力が発揮できないっていうめちゃくちゃ上手い設定になってるんですよ。
 しかもね、終盤で主人公が「孤独なものの声を聴く」ことで物語は解決に向かうんですけど、その前フリとしても効いてて、そういうところは本当にうめぇな、と思いました。
 
 まぁメインの部分は「なんでその展開になったの?」が散見されるんだけど、これって難しいところで。ある種「妖怪だから」って面で「あ、理屈は通用しないんだな。”これはそいうものだから”で良い世界なんだな」が働くからギリギリで成立してる。それを良しとするか「いやでもちょっと無いかな」になるかは……今回はアウト側に寄っちゃってる気がする。
 それでもね、最後に「歌」が重要な役割を担うんだけど、その「歌」がマジで唐突なの。いきなり人間/子供の主人公が歌いだすのが割と意味不明……なんだけど、なんだけどね。私はそれでいいと思っていて。
 というのも、例えば「もう亡くなったおばあちゃんが、子守唄がわりに歌っていた」みたな伏線を前半に入れることって簡単だと思うんですよ。ただそれをやると「あーはいはい、それが後半使われるのねー、知ってる知ってる」みたいな感じになるじゃない。最近、私そういうのに対してすっごい冷めるようになっちゃって「あ、伏線ッスねーうぃーす、もうわかったッスー」みたいに、なんかつまんなくなっちゃうのよ。「それはもう義務の伏線でしかなくて、作品内でオチのネタバレしてるだけだろ!」って。だからそこを「妖怪の話なんだから、唐突でもいいんだよ!」って押し切ってくれたことは……いまの私の気分にはすごく合ってた。
 
 うん、ホント、時期によっては大ヒットの可能性があった作品だと思います。ただアピールポイントの強い作品が多い中だと埋もれちゃう……そういう一作でした。見とくと5年後ぐらいに「隠れた傑作!」とドヤれる感じはあるので、余裕があれば是非。

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 次回は『きんいろモザイク Thank you !!』評を予定しております。

 この話をしたツイキャスはこちらの16分ぐらいからです。


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