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一週遅れの映画評:『プリキュアオールスターズF』21年目の「諦めない!」

 なるべく毎週火曜日に映画を観て、一週間寝かして配信で喋る。
 その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。

 今回は『プリキュアオールスターズF』です。

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 あのですね、今回のタイトルに『F』ってついてて。それで一瞬、「これもしかして”ファイナル”のF……?」みたいな空気があったんですよ。プリキュアシリーズ終わるんかなぁ……って思ったとき、私の中にいる烈海王が「わたしは一向にかまわんッッ」って言い放っていたんです。


 プリキュア、好きです。大好きです。その上でシリーズが終了することに対して「いいんじゃないかな?」と思う部分がある、というか「終わるのかも」と思ったときに自分でも意外なほど「終わってもいいかもしれん」と感じていたと言うのが正確かも。
えっとね、女児向けの4クール作品はこの世にあるべきで、現状まともにそれが出来ているのってプリキュアシリーズぐらいなもんじゃあないですか。だから仮にプリキュアシリーズが終わるとしても、何か別の作品がはじまらないといけない! だけど「もうプリキュアじゃなくてもいいかもしれない」。

 と、いうのも。まぁ大前提として「いつかは絶対に終わってしまう」わけですよ。それが今回かもしれないし、10年後かもしれない。だけど絶対に終わりは来る、悲しいけどね。その上で終わるとしたらいまは良いタイミングなんじゃないか? と思うことには理由があって。
 20年っていう節目というのは理由のひとつではあるんだけど、それはきっかけみたいなもので。んー、なんというか「プリキュアに委託されてるもの」が大きくなりすぎた、ってのがあるのですよ。
 
 さっきも言ったように現状として女児向けアニメというのが大変に少ない。数年前まではプリリズシリーズ(プリパラ、プリチャン、プリマジ含む)とかアイカツシリーズとか、あとはサンリオ系のジュエルペット、リルリルフェアリル、ミュークルなんかもあったわけですよ。あとガールズ戦士シリーズもね。そこで微妙に対象年齢ですみ分けながら、それぞれに違うテーマとかメッセージを扱っていた。
 ひとつの作品では全てを賄えないのは当然だから、そこで相互補完的な関係があった。まぁそれは結果論でしかないのだけど、そういった共生が存在していたと思うんです。だけどいまはプリキュアぐらいしかない。いや『ぼさにまる』あるけどね。
 
 そういった環境的な面とは別に、社会の認知度として「プリキュア」ってものがデカすぎる、大きくなりすぎてしまった。なんというか「現代の女の子に向けた情操教育」として、過剰に社会的な役割を担わされている。これは『Hugキュア』辺りから特に目立っているような感じがするんですが、えっとね、ざっくり言うと「大して女児向けアニメに興味はないけど、女性の役割について何か言いたい方々」がこぞってプリキュアに対して何らかの言及をしがちという……これもうどう表現しても、私の中にある苛立ちが顔を出してしまうんですがw でもまぁそういうことですよ。
 実際ね、キュアウィングが「初のレギュラー男子プリキュアだ!」って話になったとき、そこで『ミュークルドリーミー』の朝陽が話題にはならないわけじゃあないですか。結局「プリキュアで行われている」ことが重視されていて、それ以外の作品が(ヘタすりゃ過去のプリキュアシリーズですら)無視されてしまう、っていうとちょっと違うな。プリキュア含めた色んな作品を”知ろうともしない人たち”がわかりやく噛みつける対象になってしまってるんです。
 
 で、これはね素晴らしいことにプリキュアシリーズはそういった要請に応えようとしてきたし、応えてきた。これはマジですごいことだと思うんです。だけどもういいだろうと、あえて悪い言い方するけどただのジャリ番組が担うのに、その責任は大きすぎるだろ。だからここでいっかい「プリキュアシリーズ」はファイナルを迎えて、何か別の新しいものをはじめてもいいんじゃないか。
 
 そんなことを考えていたんですが、ええ、ここまでが長い前置きなんです。
 結果『プリキュアオールスターズF』を見てどうなったかと言うと、私の中で「一向にかまわんッッ」って叫んだ烈海王がボコボコにされるっていうw 私の繰り出した「プリキュアをかなぐりすて、ただのジャリ番としてのぐるぐるパンチ」が「4001年目の中国拳法」に一蹴されるという図式ですね。そしてここからネタバレです。大丈夫ですね?

 本作で登場するキュアシュプリーム/プリムは、元々外宇宙からやってきた存在で。宇宙を巡る先々で星を滅ぼしては、次に移動するってことを繰り返していた。
 で、今回は地球にやってきてプリキュアと戦うことになる。そこでプリキュアたちは一度負けてしまうんです。それでもかなり善戦したことで「この生き物が強い理由を知りたい」と思ったプリムは、その戦った記憶を失わせた状態でプリキュアたちを復活させて、強さの理由を探ろうとする。
 そのために自分も「キュアシュプリーム」となって、プリキュアたちと同じような姿や能力を使用できるように設定した上で、自ら作り出した「敵役」と戦ってみる……みたいなことをしてるんですよ。
 
 まぁなんやかんやございまして、キュアシュプリームの本体とプリキュアたちが対峙することになる。その過程でキュアシュプリームと一緒に作られた、プーカという妖精”役”がプリキュアたちに協力することで、キュアシュプリームを撃退する。という話になるんですけど。
 
 これでなんで私がボコボコにされる話かっていうと、「プリキュアの強さを知りたい」っていうキュアシュプリームって、要はプリキュアの表層しか見てないわけですよね。
 守りたいものを守るために、その結果として強いのがプリキュアで、それは彼女たちにとって手段なわけじゃない。むしろ守りたいものが守れるのなら、強くある必要すら無い。一方でキュアシュプリームは「強い」ことが目的になってる、それってプリキュアの強さが「プリキュアであること」に由来してると考えてる。
 つまり「守りたい→強さが必要→プリキュアになる」という状態を、「プリキュアである→だから強い→守ることができる」という逆の関係だと誤認してるんですよね。
 
 これ、キュアシュプリームがさっき話した「プリキュア含めた色んな作品を”知ろうともしない人たち”」が、プリキュアって作品の表層だけ見て「これは思想的に素晴らしい!」って言ってる姿と同じなわけですよ。そうやって表面的な部分だけで語られたり、ジャッジされてしまうことと、それでもそういうことをしてくる相手がはちゃめちゃに強力だとも描いていて。
それに対して私は「もう負けちゃおうぜ」「いったん殺されて、どっかで生まれ変わればいいじゃん」みたいなことを言ってるのと同じわけですよ。「プリキュアがファイナルでも、一向にかまわんッッ」って言うってことはさ。

 でもプリキュアは当然だけど、それを良しとはしない。そこに「守りたいもの」があるから、そしてその「守りたいもの」でありながら同時にその「守りたいもの」と自分を結びつけている愛とか友情とかがあるから、戦うことを選ぶわけですよ。
 そりゃあいつかプリキュアシリーズが終わるときは来るでしょうよ、だからといって「こんな理由で終わるわけないでしょ!」と私は横っ面をバチコーン! と、張り倒されたんです。プリキュア大好き! とか言っておきながら、敗北を望むなんて! 歯ぁ食いしばれ! 修正してやるっ! とグーパンぶち込まれて、ボコられたわけです。
 
 さらにですよ。キュアシュプリームが生まれる過程で誕生したプーカと、プリキュアたちは絆を結び。最終的にはキュアシュプリーム/プリムも強さでは”ないもの”がプリキュアたちに宿っていると。それはどうやらプーカとプリキュアたちの間にあるもので、完全には理解していないけど、それは強さよりも大事かもしんねぇ……みたいな感じで和解するわけですよ。
 ここが、もうめちゃくちゃ凄くて。元々は表層にしか興味のなかったキュアシュプリームを相手にして、「でも、そのキュアシュプリームに付随して生まれたプーカと絆を結べる」し、最後には「プリムとも分かり合える」可能性を示唆して終わる。
 つまり、最初は表面的でも、何らかの主義主張に利用しようとしても構わんッッと。それでもその周辺にいる人に伝わるものはあるし、最後にはそういう相手にもちゃんとわかってくれる。その可能性を諦めない! そういう意志表明じゃあないですか。
 完全に「一向にかまわんッッ」を真っ正面から打ち返されて、なおかつ「現状よりも先に希望を見出す」という4001年目の一撃でボコられる。このふたつで私は「ボコボコにされた」わけで、そして完全に浄化されました。
 
 いや、もうね、完膚なきまでに叩きのめされて。それがすごく気持ちよかったし、プリキュアの20年という歴史はこれまで「諦めなかった」強い意志であり、そしてそれによって続く21年目を「諦めない」という強い意志でもある
 それをもう心の底に叩き込まれました。マジで反省した、「終わってもいいじゃないか」とか、二度と言わねぇ

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 次回は『ミュータント・タートルズ:ミュータント・パニック!』評を予定しております。

 この話をした配信はこちらの13分ぐらいからです。


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