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一週遅れの映画評:『仮面ライダーギーツ×リバイス MOVIEバトルロワイヤル』混乱から目覚めて。

 なるべく毎週火曜日に映画を観て、一週間寝かしてツイキャスで喋る。
 その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。

 今回は『仮面ライダーギーツ×リバイス MOVIEバトルロワイヤル』です。

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 今回の敵ボスであるライダーがかなり混乱したキャラクターと能力をしてるんですよ。
 政界の重鎮を父親に持つ4人兄弟の末っ子で、格闘家としてかなりの実力を持っている。だけど他の兄弟は政治の舞台で活躍していて、父親から「あいつは落ちこぼれ」って烙印を押されているんですね。だから本人はそこにコンプレックスがあって、その裏返しで「力が、強さがすべて。それで決まる世界になればいい」と思ってる。
だからDGP改めデザイアロワイヤル(DR)に参加する。ライダー同士が戦って、一番強かったやつの願いが叶う……なんて彼が望む世界のあり方そのものなワケだからね。

 ただ、彼が変身するライダー。特殊能力として「建築」があるんです。これたぶん『フォートナイト』みたいな、戦闘中にバババババッと建物を作って戦闘場所を自分で構築していくゲームが下地にあるんだけど、その時点でわりと「力がすべて」では無い感じが出てるわけですよ。
しかもこのライダー、3種類の武器を扱うんですが、その建築で目の前に壁を作る→その壁の一部が開閉式になっている→のぞき窓を開けてそこからガトリング砲で狙撃! とか、壁を目くらましに使うとか、挙句は機械の腕を2本増やして3つの武器全部を振り回してくる。つまりはめちゃくちゃトリッキーな動きで攻めてくるんです。
 さらに最終目標が「空の高いところにある”次元の裂け目”まで建築によって到達。その裂け目を開いて世界を崩壊させる」とかで、全然「殴り合いで一番強いやつが優勝!」みたいになってない。
 だから「本人の思想」と「ライダーの能力」あるいは、「本人の思想」と「ゲームの目標」がまるっきり噛み合っていない。一方で「ライダーの能力」と「ゲームの目標」は(それ、完全にこのルール用の設計じゃん! ってくらい)嚙み合っている。ここにものすごい混乱があるんですよね。
 
 そもそも彼がDRで叶えようとした願いっていうのが「父親を独裁者にしたい」っていう、いや他に書きようなかったの? 独裁者て、という感じはかなりあるんですがwそういった部分から、彼が道具として扱われていることがよくわかる。自分のために使える願いすら父親に搾取され、DRで勝ち抜くために与えられた力も思想を無視したものになっている。
たぶん「独裁者」って表現は、そんな父親の悪辣さを理解した上で、「自分が完全に支配されれば、こんなことに悩まなくていいのに」っていう負の願望がある。
 つまりここにあるのは崩壊した「親子」の関係なのです、息子を切り捨てようとする父親と、それでも父親に認めてほしくて自分を殺してまで働く息子。そういった崩壊した関係を持つ男が「建築」を能力として持つライダーに変身する……すごく皮肉な構造になっていて、すごく悲しみを誘う
 
 そしてこの作品にはもうひとつの悲しい関係がある。それが一輝とバイスなんですよね、『リバイス』本編でバイスは消滅して、一輝の記憶からバイスに関する思い出もすべて消えている。
今回の映画で一時的にバイスが復活して、一輝の記憶も戻る。だけどそれはこのDRが終了するまでの話で、ゲームが終わったら再びバイスも、その記憶も失われてしまう。けれど世界を救うためには、このゲームに勝って終わらせなければならない
 
 ここがね、すごく良いポイントで。一輝とバイスの間には「家族」として積み重ねてきた日々があり、記憶がある。一方で今回のボスライダーは親子っていう「家族」なんだけど、そこは崩壊している。
 それを裏返すようにボスライダーはゲームに勝つため、建築をして積み重ねようとしているけど、一輝とバイスはそれを崩壊させて阻止しなければならない。こう「積み重ねる/崩壊させる」がそれぞれのキャラクターが持っている背景と、物語上での目標できれいに反転しているんですよ。
 
 それでね、最後ゲームは終わりバイスは消えてしまう。ただ今回の優勝商品として英寿/ギーツは「一輝の記憶が消えない」ことを願うんです。バイスは消えてしまうけど、その思い出は消えない……積み重ねてきた二人の記憶がもう失われることはない。
一方でボスライダーの方は戦いに負け、父親も不正が表ざたになり失脚する。彼らの手にあったものはすべて失われることになる。これでようやく「家族という積み重ねてきた、記憶は残る」/「家族は崩壊していて、歪んだ関係も精算される」というように、「積み重ねてきたもの/崩壊しているもの」が一致することになる

 これって『リバイス』がやりたかったことの一側面だと思うんですよ。自分の中に悪魔がいる、って状態でその自分と悪魔が別の方向を向いている、つまり「混乱」がある状態では幸せになることはできない。自分の中にいる悪魔の存在を認めて、それと手を取り合うことで行動と願望が一致する。その時はじめて、人は幸福になるのだ、と。
 そういった意味では『ギーツ』の「ゲームに参加して勝てば願いが叶う」っていうのは、ものすごく行動と願望が一致したステージなわけで、この二つの作品がこうやって冬映画として手を取り合うことができたのは、素晴らしいことなんじゃないかと思います。

 正直、『仮面ライダーリバイス』という作品がストーリーとして決して優れてた作品とは、やっぱり言い切れない部分はあります。それでもバイスというキャラクター、あるいはバイスを中心とした他キャラクターたちとの掛け合いは、確かに面白かった
この映画でも「バイス復活前のしまらない感じ」から、バイスが画面に戻って来た途端「テンポの良い、面白いやり取り」がはじまったことで、改めて「バイスを中心としたキャラクター同士の関係性」という部分が、『リバイス』の一番面白いところだったな、と。
 本作はその強みを十分にわかって、アピールしてきた「いや、なんだかんだで私、『リバイス』が好きなのかもしれない」と思わせてくれる作品でした。
 
 でも『龍騎』がそこに参戦する必然性が、結局よくわかんなくなっちゃったけどねwいや、バトルロワイアルとしては「そう」なんだけど、それだけで終わっちゃったというか……フレーバーにしかなってないな、物語的な意味はあんまないな。という点は非常に残念でした。

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 次回は『近江商人、走る!』評を予定しております。

 この話をしたツイキャスはこちらの18分ぐらいからです。


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