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一週遅れの映画評:『シン・ウルトラマン』つまらないから、絶望する。

 なるべく毎週火曜日に映画を観て、一週間寝かしてツイキャスで喋る。
 その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。

 今回は『シン・ウルトラマン』です。

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 もうねエンディングに到達したときにはぽろっぽろ泣いてて、水分を吸ったマスクが口に張り付いて酸欠起こしそうになりながら思ったんですよね、「これあんまりだな」って。

 すごい好きなところはあるんですよ。例えばあの高速縦回転ね、あの『ウルトラマン』で度々出てきたアレをきちんと理由付けをしている……スペシウムによって重力操作をしているから人類には理解不可能な挙動で飛行する→恐らくあの奇妙な直立回転がもっとも効果的なんだろう、みたいな理屈があるっぽいしそれで納得させれる映像になっているところとか。
 あと匂いで追跡できるところも「なるほど相手は異星人だから感覚器官が違っていて、恐らく匂いがあるという概念が薄い(理屈としては地球人を知る過程で把握していても、それに対応する必要性まで思い至らない)から、そこがセキュリティホールになるんだろうな」ってなんとなく想像できる。そこから異星人が地球の食事をしているシーンを考えると、少なくも嗅覚は無いっぽいからこの食事に対して本当は対しておいしいと思ってないんじゃないのか? そういえばコイツ「好きな言葉です」とかは言うけど好悪を示すのって「言葉(意味)」に対してだけだな……やっぱり感覚器官が人間とは全然違うんだ、やっぱ仲良くなれんなコイツとは!ってちゃんと理論立てて思わせるところも。
 そう、それで思ったんだけど、この「好きな言葉です」もめちゃくちゃ胡散臭くて。なんか未開の惑星にいる一応コミュニケーションは取れるけどウルトラ文化レベルの低い相手に対して「あなたたちの言語とか文化を理解していますよ〜、ほら友好的でしょ〜、へらへら」みたいな、あれじゃんああいうことわざとか慣用句を座右の銘にすることはあっても、いちいち一つ一つに対して「これ好き」とか「あれ嫌い」とかあんま言わないじゃない? だからあの態度ってこっちをすげー程度の低い相手と見なしていて「こうやって表面上の理解を示せば十分」みたいに思ってるということなんですよ。この感じなんか覚えがあると思ったら、あれだ、爆笑問題の太田がゆるゆりTシャツ着てる人に「それラブライブだろ!」って言うやつあるじゃん、それで苦笑いしながら「そうです」って言うときの、あれを見たときの気持ちにすごく近い。あの決して表面上は友好なんだけど絶対相容れないことが確信できてしまう、あれと同じ枠の気持ち。

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 そういう部分……『ウルトラマン』をいまやるにあたって足りなかった部分や意味合いを掘り下げれそうな部分を、しっかり背景を持って作り上げてるところはめちゃくちゃ好きなんですよ。「おお、これぞ空想特撮だ!」って感じで……つまりイメージや想像、つまり空想を実物として撮影できる形で出力するっていうプロセスがとても良いと思うんです。

 あとですね、超好きなところは滝くんが……非粒子物理学者だっけ?あの禍特隊の若いオタクの人、あの人の描写がすごく良いんですよ!終盤、ゼットンという脅威にウルトラマンですら敵わなくて「もうどうしようもないわ」といった感じで自暴自棄になってる、そこに「絶望してるより希望を持ってるほうが楽しいわよ」って言われるんですけど……きっとね彼にとっては逆なんですよ、たぶん学者として「楽しいなら希望が持てる」んだと思うんです。で、そうやって「楽しい」なら恐らく世界がどうなろうが、ゼットンの1兆度火炎で銀河が焼却されても仕方ないぐらいのことは思ってるんじゃないかな? と。
 どういうことかって言うと、学者として、というか探求者として「わからなさそうだけど、糸口だけは見えてる」とか「ここまではわかるけど、ここからは解らない(から思考する)」とかっていう状況なら彼は生き生きとしていられるわけですよね。実際ウルトラマンから送られたベータカプセルのヒントを手にした瞬間、それで本当に理解できるのか、できたとして何とかなるのか解らないけど、もうノリノリで研究をはじめちゃう。その瞬間、彼は絶対に「楽しい」と思ってる、その結果が絶望になろうが希望になろうがどーでもいい、というか滝くんにとっては「楽しい」こそが希望なりえるわけですよ。
 そう考えて前半の言動を見ると出てきた禍威獣に対して「打つ手ない」「終わりだ」「どうしようもない」とかずっと言ってる、なのに手を動かしたり考えたりすることを決して止めようとしない。禍威獣を相手にして本当に手も足も出ないとしても、もしかしたら何とかなるかもしれない、今まで人類が積み重ねた知恵とかこれまでの経験が「まだ方法を考えるだけの余地」を与えてくれる(しかも思いついた方法を多少の無茶があっても実行して試せる!)、研究者にとってこれほど楽しいことってたぶん無いんですよね。その結果、どうしようもなくて死んでも別にいいんだと思う、彼は
 だからその逆に、観測データも全然参考にならない、法則を考える糸口すら見つからない、しかもそれがまったくの未知な現象じゃないくてどこかの異星人は完璧に理解している既知の技術だ……これって滝くんにとっては死ぬほどつまんないわけですよ。で、つまんない”から”絶望する。も〜〜っこんなのめちゃくちゃ理系のオタクじゃん!好き、私、滝くんのこのメンタリティ、大好き。

 でね、ウルトラマンも「人ピのこと、しゅきぃ……」ってなるわけですよね。いや、私のしゅきとは違う方向性だから、いま話をつなげるために無理矢理ブリッジさせたんだけどさw
 私は全然違うものに対して一方的に好感度かカンストするのを見てると堪んなくなって、例えばルンバ、あのお掃除ロボットのルンバね。人間はただの掃除機であるルンバに対して、一緒に生活している間にペットみたいな感覚をおぼえてしまうみたいな話を聞くわけですよ。壊れたルンバを修理してほしい、新しいのを買ったほうが安くて性能も良いことを理解しているのに、それでも治して(※書き起こし注:これ漢字はわざとね)欲しいという。
 あるいは戦場で使われる無人機とかドローンに対して、それが破壊されたときに修理を切望する軍人の話とか……それが事実かどうかは別として、私たちはそういう逸話を聞いて「ああ、たしかにそういう気持ちになるのかもな」って理解できちゃったりするわけですよ。
 そういう生きてはいないものに対して生命っぽさとか「人格ーのようなもの」を見出してしまう、そういう人間の持ってる精神のバグが大好きで。それって突き詰めると、私たちは人格っていうものが本当に存在するかどうか絶対に確証は持てない、持てないけど他人には人格というものがあると信じて、誰かのことを愛するわけですよね。信じるしかない。そういう人間のバグが私には心の底から愛しいんですよ
 で、ウルトラマンの「人類のことしゅきしゅき」も「それ」なんですよ。人間を理解したいけど、やっぱり全部は理解できない。だって生き物として根本が違うからね(それこそ人間とルンバの差ぐらいには違う)。それでもそこに「愛するに値するものがあると、信じる」の結果が「人類さんがしゅきピ……」になるわけで、これはもう人間とウルトラマンが「同じバグ」を抱えてるわけで、それが逆説的に相互理解がいつかできる可能性として立ち上がってくる
 そしてゾフィーは(ここはゾーフィのほうがいいのかな?)その可能性を一歩離れた立場として信じるわけですよ。こんなんめちゃくちゃ感動するに決まってるじゃん!だってここには愛と信頼しかないんだから!

 でもね。
 でもそれって『ウルトラマン』と同じなんですよ。『シン・ウルトラマン』固有の話なじゃなくて、原典である『ウルトラマン』でもうやってることで。それが「原典なんだから当たり前だろ」とは思うんだけど……その、これは私の好みとして「新しいもの」が欲しいわけですよ、新しいことに一番の価値を見出してるワケ。そういった観点からすれば『シン・ウルトラマン』の結末って、なんも新しくはないんですよね
 だから私はすっごく楽しんだし、面白かったし、めちゃくちゃ感動した。だけど、それだけど私がもっとも重要だと思ってる部分は満たされなかった。だから感動で号泣しながら「これあんまりだな」って感想になるんですよ。

 素晴らしい作品なのは間違いない、だけどこの新しいものを提示していないから見る価値は(私にとっては、でしかないけど)あんまり無い。
 「めちゃくちゃ面白かった!別に見ても見なくてもいい!」、字面だけだとそんなわけのわからない結論になる作品でした。『シン・ウルトラマン』おすすめではないです、でも見たら絶対損はしない!そんな異常とも言える評価です。自分でも不思議な気分だけど、これを聞かされてるほうはどうですか?

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 次回は『ハケンアニメ』評を予定しております。

 この話をしたツイキャスはこちらの11分ぐらいからです。


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