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一週遅れの映画評:『映画 プリキュアミラクルリープ みんなとの不思議な1日』ヒープリは、人を殺せるプリキュアなのか。

 なるべく毎週火曜日に映画を観て、一週間寝かしてツイキャスで喋る。
 その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。

 今回は『映画 プリキュアミラクルリープ みんなとの不思議な1日』です。

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 おっしゃプリキュアだぁ!ってなもんで、半年以上おあずけ食らってましたからね。単純に嬉しいですよ、キラヤバですよ。
 
 ただね今回の『ミラクルリープ』、私の中では結構な問題作……って言い方はちょっと違うかな、うーんと「プリキュアの歴史に一石を投じてる」ぐらいの重要な作品で(まぁそもそも「これまでに一石を投じないプリキュアがあったのか?」と聞かれれば、それなそれでNoですが)、それが引いては『ヒーリングっどプリキュア』がめちゃくちゃ凄い終わり方をするのではないか?そう考えるとその萌芽はあるよな……っていうことを思わずにはいられない話でした。
 
 もうここから結末のネタバレ入るからね?よろしくね?
 
 
 
 今回の敵ボスであるリフレインが「同じ一日を繰り返す」理由ってのが、このリフレインはすこやか市にある小学校の時計の精で、その学校が取り壊されることが決定している。つまりリフレインとしては余命宣告を受けてるようなもので、その取り壊される日が来ないように「同じ日を繰り返す」ことを選んだのね。
 これってものすごく単純な「死にたくない」って願いで、それをプリキュアが否定するのは結構難しいことだとは思うんですよ。歴代のボス連中でもここまでストレートな「死にたくない」が理由だったのって『Splash Star』のアクダイカーンぐらいじゃなかったかな……そのぐらい取り扱いが難しい動機だとは思うんです。
 
 だからそこに対して「明日に進みたい」って願うことって、どうしても「あなたの死があったとしても」っていうことが混じってしまう。
 でもね、ここで重要なのがその「明日」を司るミラクルンが「同じ小学校の桜の精霊」だっていうことなのですよ。桜の精霊とはいっても完全に「桜の花」モチーフで、でね、ほら桜の花ってこう儚さとか散ることが決まってるものみたいなイメージがあるわけじゃない。
 だから「明日」を司るミラクルンは桜の花が散ることを、つまり自分の死すらも含めた「明日」へ向かおうとする精霊なわけで、だからこの二人の対立って「生きていたい死にたくない」vs「生きているものはいつか必ず死ぬ」の構図になっている。
 
 でそこにプリキュアたちが介入していくわけだけど、そりゃ当然「明日に進みたい」側に協力することになる。あのこれはたぶん見落としじゃないと思うんだけど、プリキュア側が「明日に進みたい」に加担する動機ってほぼ描かれてないと思うのよ。いや当たり前のように私も「プリキュアは同じ一日を繰り返すより、明日に進もうとするでしょうよ」思うけど、でもそれがあまりにも承前として話が展開するのね。
 それに加えて、エピローグでこの小学校が取り壊される計画に反対しようって動きが起こって、それでリフレインは助かる(かも)ことが示唆されるんだけど、それは本当にエピローグで出てくるだけで、プリキュアが戦ってリフレインに勝利する場面でもまだ彼の死は確定したままなんですよ。だけどプリキュアは「明日」に進もうとする。
 
 だからこれ本当は「明日に進みたい」がテーマではなくて、「生きてるものはいつか必ず死ぬ」をどう受け入れていくか?っていうのが芯にあるんじゃないかな、と思うわけですよ。
 
 そういった意味で、今年の『ヒーリングっどプリキュア』は医療がモチーフになっていて、でね医療って人を助けるためにある。限界まで限界まで何とかしようとする、だけどそれと同時に「死ぬときは死ぬ」っていうあられもなさを持っているんです。それはギリギリのところで戦うからこそ、そのギリギリ手が届かなかったものを見てしまう。
 だから『ヒーリングっどプリキュア』は容赦が無いとうか「救えないものもある」に対してものすごく真摯で誠実で、だからこそ「殺すしかないときだってある」という選択ができるプリキュアとして作ろうとしているかなと。
 
 その補助線をもってテレビ本編に目を向けると、9月にあった「ケダリー」の話になるわけで。
 つまり主人公の花寺のどかがメガパーツを埋め込まれたことによって誕生した「ケダリー」に対して、躊躇や逡巡なく戦って消滅させた回……視聴者の目からしてみれば疑似的な親子関係にあるケダリーに対して、恐らく例年のプリキュアだったらもう少し迷いや葛藤の末の消滅という展開があるだろうと予想した上で、そうはならなかったことに驚きはあって。
 ただそこに『ヒーリングっどプリキュア』が持つ容赦のなさ、あるいは達観ともいえる態度を代入すると理解できるというか、ビョーゲンズであるケダリーはどうしたって倒さなければならないのなら、そこに憐憫や憂いを差し込む余地はなく「殺すしかないときだってある」を選択できるプリキュアとしての唯一性が輝いているように私からは見えるのです。
 
 この『ミラクルリープ』、本来は3月公開予定の作品だから計画通りなら「リフレイン殺害未遂」→「ケダリー殺害」という順番になった。それプラス『ヒーリングっど』単体映画もあったはずで、恐らくはこの「容赦のなさ」がそこでも描かれたとしたら『ヒーリングっどプリキュア』のやろうとしていることは、ものすごくクリアに提示できていたのかな?とも考えたりします。
 
 なんにせよ。恐らくは歴代プリキュアでもっとも「容赦のない(というか「できない」)」『ヒーリングっどプリキュア』が、4クールの終わりに何を描き何を見せてくれるのかが本当に楽しみになる非常に良い劇場版だったと思います。
  
 ミラクルンもだけどキュアグレース/花寺のどかの技も「花」に関連するものが多くて、この容赦のなさを思うとナイチンゲールの「天使とは、美しい花をまき散らす者ではなく、苦悩する者のために戦う者である」という言葉が浮かんできます。
 彼女たちが花を決して手離さず、それでも苦悩に立ち向かい乗り越えていく様をしっかりと見届けたいです。

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 次回は『羅小黒戦記(ロシャオヘイセンキ) ぼくが選ぶ未来』評を予定しております。

 この話をしたツイキャスはこちらの14分ぐらいからです。


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