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一週遅れの映画評:『雨を告げる漂流団地』思い出すように傷ついて。

 なるべく毎週火曜日に映画を観て、一週間寝かしてツイキャスで喋る。
 その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。

 今回は『雨を告げる漂流団地』です。

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 いやマジで「あれ?FANZA同人の新作かな?」ってぐらいだったもんね。『雨を告げる漂流団地』のNTR(BSS)っぷりは。だってあれですよ? 幼馴染みの女の子に対して「コイツのことは全部知ってる」と思っていた男の子が、そうだと信じ切って安心してた相手の口から不意に語られる「自分の知らない男の名前」を聞いて焦燥感をバリバリに煽られつつ「別にお前が誰といようが興味ないんだが?」みたいな表情を必死で作ってる場面。100点です、100点のNTR(BSS)設定です。しかもその相手が「のっぽ君」ですよ、「のっぽ君」! なにかい? のっぽ君のっぽクンのっぽくんなのかな?^^

 まぁそろそろ知性を取り戻そうと思うんですけどw この作品、すごく真正面から「子供が成長するための通過儀礼」を描こうとしていて、そこがいわゆる「感傷マゾ」にも繋がっている感じがあるんですよね。
 えーと、主人公たちは解体予定の団地屋上にでたところで謎の大雨にあい、気がつけば周囲が海に囲まれた不思議な場所に団地ごと飛ばされている。そこで生存と帰還を目指して奮闘するわけですけど、その中で私が一番注目してたのって「傷」なんですよ。主人公たちはその漂流生活中に怪我をするわけです、具体的には女の子2人で計3回。あ、いま「お? いつもの身体性の話にするのかな?」って思ったでしょ。確かにいつもの批評同人誌への寄稿なら、ここから傷つく身体みたいな話をしていくと思うんですけど……まぁ令和も4年になって今さら大塚英志もないわけですよ、「まんが・アニメ的リアリズム」とかもう平成に置いておきましょうよ。あとあれだ、お好きな方は「少女が血を流す成長、初潮のメタファー!」って方向性で何か書くと面白いと思いんじゃないかな。私はその方向性で論考を書くのがあんまり得意じゃないので、このアイデアは格安でお譲りいたします。詳細はDMで。

 でね、私が気になったのはその「傷」がいつまで経っても治らないことなんですよ。たぶん主人公たちの体感時間では1週間以上経過しているのだけど、ひとりの子が膝に負った怪我、というかそこに巻かれた包帯にはずっと鮮明な赤い染みが滲んでいるんですよね。小学生なんて新陳代謝が早いから傷の治りは良いはずだし、そうでなくとも鮮血はすぐに赤黒い色に変わるわけじゃないですか。
 これって端的に「この空間では時間が進んでいない」ことをあらわしていて、傷つく/怪我はする”けど”時間が進んでいないことがすごく重要だと思うんですよね。ほら、子供が大人になるときに「傷つくこと」でその過程を描く作品はいっぱいあるわけですよ。精神的にしろ肉体的にしろ、その身に傷を負うことで庇護される子供の立場から、自らを傷つく場所に行けるようになることが「大人」になることだみたいに。
『雨を告げる漂流団地』もわりとその方向だとは思うんです、思うんですが、決して傷つけるだけでは終わらない。というか傷ついたままでは時間が進んでいかないんですよね。肉体が成長期の子供は時間が経過するだけである程度大人になっていくわけで、それが止まっている。

 だから『漂流団地』では「傷つくこと=成長」って図式ではないんです、作品終盤で頭部に傷を負った子が昏倒したまま目を覚まさなくてなって、それが最終盤に突然起き上がってくる。別にこれといったきっかけや演出があるわけでもなく、なんやかんやしてるところにスッと復帰してくるのね。そこから物語がクライマックスに向かっていくタイミングで。
頭に巻いた包帯にはまだ赤い血が滲んでいるけど、気を失った状態から起きたってことは「治りつつある」ってことじゃないですか。それと物語の終わりが同期しているってことは、傷が癒えていくことによって時間が進んでいる。時間が進むということは成長の可能性がそこに生まれている。
 つまり『漂流団地』では「傷つき、それが治ること」を「成長」だと捉えているのですよね。

 これがすごく誠実だと思うんですよ。傷つきましたねー成長ですねー良かったですねー、で終わらせない。傷ついたものを「もう大人でしょ?」ってほっぽりだしたしないんですよ。それが治って初めて大人なんだよ、って。これの何が良いかって、傷つける/傷つくのは一瞬なんですよ。鋭いガラス片で足を切るのは一瞬の出来事で、だけど傷は一瞬で治らないじゃないですよね。出血が弱まって、カサブタになって、だんだん切断面が塞がっていく。
成長はすぐに訪れるのではなくて、時間をかけてゆっくりと進んでいく。子供が大人になるには、その傷がふさがっていく過程を見届けてはじめて達成になるのだと、そういうある程度の時間が必要だっていう「”通過”儀礼」として描いている。
 それと対比するようにもう治らない/直らないものは、どうやっても失われてしまう。時間が過ぎても治らない傷を抱えてるもの、つまり成長の可能性が無いものは消えていくしかない。年寄りであったり解体される団地であったり、そういうあられもなさというか冷酷さも確かにあって、そこを隠す気があんまないとこが良いんですよ。

 そう、それでね、私は最後に出てくる「観覧車」がめちゃくちゃ好きで。もうぼろぼろで団地とかと同じく「終わっていくもの」としての観覧車と、その観覧車の精みたいな……ここちょっと『planetarian』ぽさもあって、

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まぁほんとにちょっとだけなんですが。それで観覧車の精は主人公たちを助けるために自分が完全に崩壊するのも厭わず行動する。
その結果、もう動かないはずの観覧車が「回る」んですよ。それは望んだ挙動ではない、むしろ失敗の結果ではあるんだけど、でもその動きは「観覧車」として表面上は正しい動作で……なんというかね、目的は達成できないし方法だって異常なんだけど、それでも最盛期と同じ動きをした。消えゆくもの、失われていくものが最後に見せたのは「観覧車としての姿」だってことに、ちょっとね感動してしまったんですよね。その動きは望まれていないことも含めて。誰かの思惑とは全然関係なく、観覧車は観覧車であり続ける。
その瞬間だけ観覧車の時間は進むんですよ、回ることで(そして壊れることで)成長の果てにある「衰退」へと向かう時間の中に、止まっていない動いてる流れに向かっていくことになる。

 だからね、こう時間を進めてそのさきで傷ついて治る、もしくは傷ついたまま壊れていく。どちらにしろ傷口は「前」にしか存在しないわけですよね。だから過去を振り返って、いつまでも思い出の傷跡を開いているのは、やっぱり弱いのですよ。「後ろ」にある傷口は癒やされているので……というの踏まえた上でこの作品を見たあとに「感傷マゾ」に対して思ったのが。
私には(寄稿までしていてなんですが)「感傷マゾ」というのがちゃんと捉えられているのか怪しいですが、あれは基本的に「存在しなかった過去への憧憬」みたいのが根底にあるわけですよね? だから体験済みの傷――それはもう癒やされているから、新しい”痛み”を生んではくれないわけですよ。代わりに存在しなかった過去とその延長線には、過去であるにも関わらずまだ知らない「前」がそこには存在している。だから未体験の新しい「傷つくこと」ができる。

 団地が漂流していたあの世界は、「本来誰の過去にも存在しない、けれど思い出になるもの」みたいに考えると、この作品は私が想像する「感傷マゾ」の映像化とも取れるんじゃないかな? と思いました。

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 次回は『映画 デリシャスパーティ♡プリキュア 夢みる♡お子さまランチ!』評を予定しております。

 この話をしたツイキャスはこちらの15分ぐらいからです。


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